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フォクスコンの工員から4000億元企業へ。アップルも注目する立訊精密の高い技術力

中国でアップル製品を製造するEMS企業としてはフォクスコンの名前が有名だが、アップルはその他のEMS企業も活用をして製造をしている。その中でも、立訊精密は、他社が製造に戸惑うAirPodsの製造を行い、高い技術力で知られるようになっている。立訊精密は、元フォクスコンの工員だった王来春によって創業されたと帥真商業視界が報じた。

 

ティム・クックCEOを驚かせた立訊精密崑山工場

2017年12月、アップルのティム・クックCEOは、江蘇省崑山市にある立訊精密(リーシュン)の工場の製造ラインを視察した。新製品であるAirPodsの生産に多くのEMS(受託生産企業)が戸惑い、生産上の大きな課題となっていた。しかし、立訊精密の崑山工場はこの問題を克服し、短期間で製品を納品し始めた。ティム・クックCEOは驚き、AirPodsの生産のどこに難しさがあり、それを立訊精密はどうやって解決したのかを知るために、崑山市を訪れた。

ティム・クックは、青い作業着に着替え、工場の生産ラインを丹念に視察をした。このティム・クックCEOの横にいる女性が立訊精密の創業者、王来春(ワン・ライチュン)CEOだ。

中学しか卒業しておらず、富士康(フォクスコン)の工員からスタートして、立訊精密を創業、現在は企業価値4000億元の企業に育っている。中国の女性起業家の中でも注目されている人物だ。

AirPodsの生産上の問題を解決し、アップルのティム・クックCEOも驚いて、崑山工場の視察をした。クックCEOの右の女性が王来春。

 

フォクスコンの第1期工員だった王来春

王来春は、中国の女性富豪ランキングでも第7位にランキングされ、2021年のフォーブズの中国優秀CEOのランキングでも11位にランキングされた。

王来春は1967年、広東省の汕頭市澄海区蓮下鎮の槐沢村で生まれた。家は農家で、兄一人がいる4人家族だった。当時の農家では普通のことだったが、中学を卒業すると家の農業を手伝うようになった。しかし、若かったため、外の世界にも触れてみたい。

1988年、王来春が21歳の時に、台湾企業のフォクスコンが、深圳市に最初の工場を開いた。深圳海洋電子プラグ工場という名称だった。王来春はこの工場の工員募集に応じ、フォクスコンの第1期の工員として入社した。

▲立訊精密創業者の王来春。農村の生まれでフォクスコンの工員から、創業をし、アップル製品の生産も行うEMS企業に成長させた。

 

劣悪な環境の中でも辞めなかった王来春

フォクスコンは、現在でも労働条件や宿舎の環境について批判を受けているが、当時はさらに劣悪で、社員寮に個室はなく、大きな体育館のような建物の中にベッドが並べられ、そこで100人以上の工員が寝るというものだった。夏でもエアコンはなく、扇風機しかない。しかも、その扇風機は熱風を送り込むだけだった。

停電をするのは当たり前で、それどころか断水までたびたび起こった。仕方なく、15分ほど歩いて、外の公共水道に行き、顔を洗ったり、洗濯をするようなこともあった。そこは、建築現場に残されたままになっている小屋で、暗く危ないため、女性工員たちはグループになって、そこまで行き、洗濯をしたり、体を拭いたりしていたという。

さらに、フォクスコン名物の残業は当たり前。あまりの劣悪さに多くの工員が辞めていく。その中で辞めなかったのが王来春だった。

▲王来春が工員だった当時のフォクスコン。環境は劣悪で、社員寮も個室ではなく、電気、水がしばしば止まった。

 

郭台銘のすぐそばで仕事ができたことが財産

当時は、フォクスコンの最初の工場であったため、さまざまな業務がうまく進まず、創業者の郭台銘(グオ・タイミン)が現場に張り付いて陣頭指揮を取っていた。人が足りない時は、郭台銘がラインの中に入って手伝いをすることも珍しくなかったという。

今日の巨大企業であるフォクスコンでは考えられないことだが、当時は創業者と工員の距離が近く、王来春は郭台銘のすぐそばで考え方や人柄に触れることができた。

王来春の素晴らしい点は、純朴であり素直であり、人を疑うことを知らないことだった。多くの工員たちは、郭台銘のことを煙たがっていた。社長なのだからそれは当然なのかもしれない。さらには、郭台銘が仕事や社員の待遇について夢のあることを語っても、多くの工員がそれは真っ赤な嘘だと相手にもしていなかった。しかし、王来春はその言葉を素直に受け止め、郭台銘という人を自分の人生の目標にするようになった。

▲中国にフォクスコンとして進出した鴻海精密工業の創業者、郭台銘。当時は、工場にたびたび顔を出し、人が足りない時にはラインに入って作業もしたという。郭台銘のそばで仕事ができたことが、王来春の大きな財産となった。

 

隠れて残業をした王来春

王来春は、お金を稼いで実家に送ってあげたかったし、自分の力をつけるために、体がつらくても残業をしたかった。しかし、周りの行員たちは残業を進んで行う工員を除け者にした。できるだけ働きたくなく、働き者を排除することで、自分の怠け者ぶりが目立たなくなるようにしたかったのだ。

そのため、王来春は深夜の残業を買って出た。定時で終わって、宿舎に戻り、夕食を食べ終わると、こっそりと抜け出して残業をする。そのような生活が長く続いた。

この姿勢により、王来春は瞬く間に出世した。すぐにグループリーダーとなり、ラインリーダーとなり、最後には課長になった。工員として入社した社員の最高位だった。しかし、郭台銘のようになりたいと考えていた王来春はもはや課長では我慢ができなくなっていた。

 

フォクスコンに助けられ成長した立訊精密

1998年、王来春はフォクスコンに入社して11年目になっていた。この年、王来春は兄の王来勝と一緒に起業をする。と言っても、自分たちの蓄えと、実家の蓄えを使って、「全勝」という名称の小さな工場を開いただけだ。

しかし、王来春は運が強かった。この年、アジア通貨危機が起こった。中国はさほど影響を受けなかったが、香港は直接の影響を受け、多くの企業が倒産をした。二人はそのような香港資本の企業を買収をしていった。この頃の王来春はもはや言われたことだけをこなす工員ではなくなっていた。フォクスコンの社員からも信頼をされ、経営上わからないことも相談をすれば教えてくれる。周りの助けを受けながら、二人の「全勝」は瞬く間に大きくなっていった。

2004年には、社名を「立訊精密」に変更をした。この時は、半分以上がフォクスコンからの仕事だった。その後、フォクスコンへの依存度は45%程度まで低下をするが、それでも立訊精密とフォクスコンの関係は濃い。その中で、立訊精密は2010年9月に、深圳証券取引所に上場をすることに成功した。王来春は1988年にフォクスコンに工員として入社をし、22年後に23億元の資産をもつ経営者になった。

そして、立訊精密もその技術力がアップルから注目されるEMS企業となった。

▲立訊精密創業者の王来春(中)と共同創業者で兄の王来勝(右)。最初は小さな町工場だったが、アジア通貨危機で経営難になった香港企業を買収して急成長をした。