2020年11月、アントグループの上場が直前で延期になるという事件が起きた。これにより多くの従業員の人生計画が狂わされた。上場に対する過度な期待と、上場延期に対する失望が、人生に大きく影響してしまうことが起きたと雪豹財経社が報じた。
ジャック・マーの個人会社だったアントグループ
2020年11月5日、上海と香港での上場を控えていたアントグループに、突然、中央政府から「待った」がかかった。アントグループは、アリババのスマホ決済「支付宝」(アリペイ)を中心にしたフィンテック企業で、バイトダンスと並んで、中国最大級のユニコーン企業と言われている。
そのアントの上場を政府が中止させたのは、アントの独特な株主構成に問題があったからだ。2013年、アリババのアリペイが、街中での対面決済を始めるには、決済事業者の免許を取得する必要があった。しかし、決済事業者は重要なインフラ事業であるため、多くの国と同じように、外資の参入規制がある。インフラ事業の統治権を外国人や外国企業に握られることは、安全保障上の問題が生じるからだ。当時のアリババの大株主は日ソフトバンクと米ヤフーであり、アリババには外資が入っているため決済事業者の免許を取得することができない。
そこで、アリババはアリペイを分社化し、なおかつ子会社ではなく、創業者の馬雲(マー・ユイン、ジャック・マー)の個人会社という建て付けにした。こうすることで、アリババとアリペイの間には資本関係がなく、アリペイには外資が入ってなく、しかしジャック・マーがアリババとアリペイの両方を統治しているために事業は協調して行うことができる。こうして、分社化したアリペイが決済事業者の免許を取得し、街中の対面決済を始め、中国社会を大きく変えていくことになった。
このアリペイは、アントグループとなり、巨大フィンテック企業に成長し、2020年に上場をするところまで漕ぎ着けていた。
株主構成を変えてから上場するか、上場してから構成を変えるか
ところが中国政府はアントグループの株主構成を問題にした。実質、ジャック・マーの個人会社になっているために、敵対的買収に弱い。現実にはあり得ないことだが、ジャック・マーが保有株主を誰かに売ってしまえば、簡単に最大株主が変わってしまうことになる。
そこで中国政府の金融当局は、アントの上場計画を知ると、株主構成を民主的(ジャック・マー1人の意思では議決ができず、複数株主の合意形成が必要な形)なものに変更をするように協議を始めた。これはアントも同意をした。
しかし、問題なのは、株主構成の変更をどのタイミングで行うかだ。株主構成を大幅に変更をしてしまうと、証券取引所によって1年から3年の上場禁止期間が設けられる。上場直前に株主構成を大幅変更してしまうと、投資家は以前の株主構成下での目論見書で投資判断をしなければならなくなる。また、上場を控えた期間に、既存株主だけが株式を譲渡できるというのは不公平でもある。また、上場をした後も半年から1年程度、上場前からの株主は譲渡が禁じられる期間が設けられている。
中央政府の思惑としては、先に株主構成を変更し、上場禁止期間が明けてから上場をするという手順を考えていたものと見られる。しかし、アントは、先に上場して株式譲渡禁止期間が明けてから株主構成の変更をしようとして、2020年の上場を強行しようとした。しかし、それでは株主構成の変更が大幅に先延ばしになる。中央政府はここを問題にして、上場をストップさせたと見られている。
悲鳴をあげたアントの従業員たち
上場延期が決まったのは11月3日の上場予定の36時間前で、アントの従業員たちは大きなショックを受けた。アントの社屋である「Z空間」はアリババのキャンパスに内にあるが、上場延期のニュースが伝わった瞬間、アントの社屋では大きな悲鳴があがり、それがアリババの社屋にいても聞こえるほどだったという。
なぜなら、アントの従業員の40%は自社株を保有していて、平均3万株を保有していた。上場をすれば、少なくとも300元以上になると言われていたため、従業員は平均で900万元(約1.9億円)の資産を一夜にして手に入れることになる。アントは従業員の半数近くが億万長者という奇跡のような会社になるはずだった。上場直前、アントの社屋のロビーには、不動産と高級車の営業マンが集まってきていた。従業員に声をかけて、マンションや高級車を売り込もうというのだ。従業員の多くは、相手にしなかったが、その空気感に浮かれていたことは否定できない。それが一瞬ですべてが泡と消えたのだ。
使わないお金があればアント株を買う
常寧さん(仮名)は、2008年に淘宝網(タオバオ)に入社をした。2012年にはアリババが従業員にストックオプションを認めたため、常寧さんは2万株のアリババ株を購入した。この当時は、アリペイはまだアリババの一部門であり、アリペイチームとタオバオチームは、黄龍国際センターにあるオフィスでいっしょに働いていたという。2014年にアリペイ部門がアントとして分社化すると、多くの従業員がアントが上場するのは時間の問題であり、使わないお金があるのであれば、すべてアントの株式の購入に使った方がいいという空気になったという。
2020年10月20日、アントグループは香港と上海科創板に上場することを発表した。アントグループの企業価値は3兆元と評価され、発行価格はA株で68.8元だった。上場をすれば一株あたりの株価は400元近くになると見られた。
上場直前に退職をした常寧さん
しかし、常寧さんは上場発表の4日前、アントを辞職することを会社に告げた。後から考えたら、最も損をするタイミングだった。「仕事がつまらなかったのです。従業員がどんどん増えていき、最初の頃にあった熱くて濃厚な空気がなくなっていきました。辞職をするには、保有しているアント株を会社に買い戻してもらい、手放さなければなりませんが、2万株のアリババ株を持っているので、あきらめがつくと思いました」。
常寧さんは、最終的にアントと保有しているアント株を195元で買い戻してもらうことに同意をし、アリババ株についてはそのまま保有することで、退職をした。
退職から4日後に上場が発表され、常寧さんは大きなチャンスを逃したことを知ったが、その2週間後にはそのチャンスはまだまだ先であることを知った。常寧さんは億万長者になるチャンスは逃してしまったが、アリババ株があるため、子どもを大学の卒業させるぐらいのお金はできた。
常寧さんはすでに40代だが、あるスタートアップ企業でバックエンドエンジニアとして、今でもコードを書いている。
人生に2回目の幸運は訪れない
陳途さんは、アリババの上場前に入社をした古参社員だ。2014年9月、アリババがニューヨーク市場に上場をし、2年後には最高値の319.66ドルとなった。その後、株価が落ち着き始めた頃、陳途さんはストックオプションで手に入れたアリババ株を102ドルで売却をして現金を手に入れた。これで自宅の住宅ローンを一括返済し、故郷の両親に家を建て、残りのお金でナスダックのインデックスファンドを購入した。
その頃、アリペイの事業が急速に伸び始めた。上司から「2度目のアップグレードができる」と、アントへの移籍を誘われた。アントは確実に上場をする。ストックオプションでアント株を手に入れ、再び上場すれば、アリババの時と同じように大金を手にすることができるというのだ。陳途さんはその言葉に乗ってアントに移籍をした。
しかし、アントでの仕事はプレッシャーの強いものだった。中央政府の規制が強く自由には動けないのだ。アリババではタオバオでの仕事をしていた。オンライン小売であるため、政府もそれほど厳しい規制をかけるわけではない。しかし、アントのフィンテックは別だった。金融という国家インフラでもあるため、さまざまな規制があり、タオバオのようには自由に仕事ができない。
アントの上場が中止になると、陳途さんには一気に長年の疲れが襲ってきた。会社と交渉をすると、アント株を保有したまま退社することが可能となったため、陳途さんは辞職をして、今ではアリババ株を売却したお金で慎ましく暮らしている。結局のところ、自分は運がよかっただけであり、そのような幸運は2回も起こらないと身に染みたという。今は、アントがなんとか再上場して、多いとは言えない手持ちのアント株が売れることを夢見ている。
アント上場を期待して高級マンションを購入
曹松さんは、大学を卒業後、2017年にアントに入社をした。ストックオプションが5万株ついている条件だった。
2019年に家を買おうと考えた。会社に、保有しているアント株を売却した場合、どのくらいの現金が手に入るかを見積もってもらったところ、だいたい1000万元前後になるということだった。曹松さんはそれでは大きな損をすると考えた。アントが上場して300元の株価がつけば、売却価格は1500万元以上にはなる。また、不動産価格は上場し続けている。だったら、アント株は温存をしておき、1000万元の予算で不動産を買い、住宅ローンを返していく。完済をすれば、不動産を高値で売って利益を確保し、同時にアントの上場後にアント株を売却すれば、生涯年収分ぐらいのお金が手に入る。この不動産とアント株の両方で利益を出すことで、30代で引退ができるのではないか。
こうして、2019年、曹松さんは杭州市の中心にある武林広場に面した高級マンション「武林壱号」に4つの寝室と2つのリビングがある部屋を購入した。妻は寝室が2つとリビング1つの部屋でじゅうぶんだと主張したが、不動産価格の値上がりを期待する曹松さんは、投資効率を高めるために高価な850万元(約1.8億円)という価格に惹かれたのだ。高額のローンを返済していかなければならないが、1000万元以内であれば、破綻をしても、保有しているアント株を会社に引き取ってもらえば精算ができる。
といっても、その時点で曹松さんにはお金がない。そこで親戚から80万元を借りて頭金とし、毎月3.6万元(約74万円)を返済する住宅ローンを組んだ。生活はぎりぎりになるが、破綻をしても精算はできるし、アントが上場をすれば、一気にすべてを整理して、引退をして悠々自適の生活を送ることができる。
生活レベルを落とさざるを得なくなった
アントの上場延期が決まった日、曹松さんも大きな悲鳴をあげたうちの一人となった。会社では疲弊するほど働き、重い住宅ローンを抱えているため、お金に余裕はない。この生活を、再上場が可能になるまでの3年ほどの間、まだ続けなければならないのだ。さらに、コロナ禍で親戚の事業が立ち行かなくなり、貸していた80万元を返してくれないかと催促されている。さらに、曹松さんは少ない手持ち資金を少しでも増やそうと仮想通貨に投資をし、大損をしていた。
曹松さんは妻と話し合い、生活を見直すことにした。3人家族には広すぎる武林壱号のマンションを売却し、そのお金で、分相応な普通のマンションに住み替えることにした。不動産価格が下落をしているため、購入価格から50万元も安い価格でしか売却できなかった。娘は3年後に小学校にあがるが、学費の高いインターナショナルスクールに入学させる計画をあきらめて、普通の小学校に入学させることにした。
精神は不健康になっても体が健康なのが救い
曹松さんは精神的にも健康を失った。理由もなく妻や娘に当たり散らすことが増え、会社に行ってコンピューターの電源を入れると、何もしたくないという気持ちになる。自分はうつ病になっているのではないかと感じているが、診断をされるのが怖く、病院にも行けない。
環境を変えるために、バイトダンスと網易(ワンイー)に転職をしようと面接を受けたが、先方からは採用を見送ると言われた。
ある日、社員食堂で昼に麺を食べていると、そばの従業員が「アントの再上場は早くても2年後になる」と話しているのを聞いた。最低でも2年間はまだこの苦しい生活を続けなければならない。しかし、曹松さんは悟りを開いた。「精神的には健康とは言えないが、幸いにも身体の方は健康だ。そして、妻と子どももいる。それだけで、私はじゅうぶん恵まれているのではないか」。
曹松さんは以前のようには積極的に仕事をこなすことはできないものの、言われたことをこなすだけであればなんとかなっている。出世をして報酬があがることは期待できなくても、解雇されない程度に働くことはできる。曹松さんは資産を増やすという執着から逃れることができ、今は心穏やかに暮らしている。