中国でよく言われる「プログラマー35歳定年説」。35歳定年制を制度として採用しているテック企業は存在しないものの、中年エンジニアが新しい技術についていけなくなったり、体力が続かなくなり、人生の転機を迎えるのは事実だ。碼農故事匯では、実際の30代のエンジニアが次の人生をどう考えているのかを取材した。
30代になると次の人生を考えるエンジニア
どの国にも、プログラマー35歳定年説というのがある。中年になると、新しい技術についていけなくなるというのが主な理由だが、中国の場合はITエンジニア、プログラマーはハードワークであり、体力的についていけなくなるという理由も大きい。
ただし、どのテック企業も「35歳定年説」は否定をしている。それでも、厳しい淘汰制度があり、中年になると成績不良で事実上の辞職勧告を受けることも多い。実際のところはどうなのだろうか。多くのエンジニアが30代になると、より業務負担の小さな企業への転職、管理職への転身を考え、あるいは勝負をかけて起業するなど、次の人生を考え始めている。
▲テンセントの人事評価の仕組み。ポテンシャルと成績の二軸マトリクスで評価され、いずれも低いと、左下の「アンダーパフォーマー」と評価され、「速やかに組織から分離する」と但書がついている。解雇されるという意味だ。このような淘汰制度は、多くのテック企業が取り入れていて、エンジニアにとって大きなプレッシャーになっている。
宋さん、45歳。国営企業に転職
宋さんは76年生まれで、今年45歳になる。確かに中年にはなっているが、若々しく、職場では経験豊富なベテランエンジニアとして慕われている。エンジニアとしては幸せな人生を送っている。
宋さんが大学を卒業したのは、中国のインターネットが急速に発展した時期で、今日テックジャイアントと呼ばれる企業が成長していく様を目の当たりにしてきた。宋さんも体力を代償にして働いたが、報酬面では報われた。
また、当時の発展の速度は、今日から比べれば緩やかなものだった。そのため、忙しいと言っても、精神的にはまだ余裕があった。宋さんも恋をし、結婚をした。決して広いマンションではないが、自分のマンションも購入した。当時は、不動産価格も今のような異常な高騰ぶりではなく、テック業界では、結婚すればマンションを購入するというのは当たり前のことだった。二人で働いていたため、数年後には住宅ローンも完済できた。その後、不動産価格が高騰する時代となり、宋さんは無理をしてでも、もうひとつ投資用にマンションを買っておくべきだったと後悔している。今のエンジニアたちが、マンションが買えなくて嘆いているのとは大違いだ。
さらに、宋さんは、テック業界に996(朝9時から夜9時までの週6日勤務。過重労働の例え)が蔓延し始めた頃、国営企業の情報部門に転職をした。国営企業ではそれまでの経験と知識が高く評価され、給与も悪くなく、福利厚生はしっかりとしている。しかも、過度のプレッシャーや残業もほとんどない。
難を言えば、それ以上の出世する余地がほとんどないことだが、宋さんは自分の人生を振り返ると悪くないと思っている。今でも、好きなプログラミングの仕事を続けながら、生活の安定を手に入れている。
▲中国のネットに出回っているミーム画像。左上は「残業なし」。右に行くほど仕事がキツくなり、髪の毛を失われていくというエンジニアの自虐画像。彼らのアイドルは、アマゾンのジェフ・ベゾス。
張駿、33歳、プロダクトマネージャーに転身
張駿さんは、まだ35歳になってはいないが、自分が中年になりつつあることを意識し始めている。自分の中では、まだまだプログラミングの現場で働けると思っていたが、昨年、コロナ禍を機にプロダクトマネージャーに転身をした。
コロナ禍は、多くの企業に打撃を与えたが、張駿さんの企業は事業の特殊性により、コロナ禍で大きな利益を受けた。新しい社員が続々と入社してきて、社内は活気づいた。
張駿さんはこの会社で数年働き、企業の規模は決して大きくないものの、それゆえに居心地はいいと感じていた。残業も比較的少なく、待遇も決していい方ではないものの、仕事量を考えれば納得がいく範囲だった。
しかし、コロナ禍によって労働環境が大きく変わった。企業の規模は急速に大きくなり、残業が急に増えた。張駿さんは、今まで早く帰って自宅で楽しんでいた自分の趣味の時間がなくなってしまった。
その中で、プロダクトマネージャーが不足していることから、社長は張駿さんに白羽の矢を立てて、プロダクトマネージャーに昇格させた。張駿さんは、迷ったが、外部からプロダクトマネージャーを連れてくると、業務を理解したり、社員とのコミュニケーションに慣れるのに時間がかかってしまうことから、同僚のことを考えると自分がなった方がいいと思い承諾をした。決め手になったのは、社長の言葉だった。「プロダクトマネージャーは残業をしなくていい。自分の仕事が終わったら帰ってかまわない」。
残業はまったくしないわけにはいかないが、年末には決して少なくないボーナスが支給されるので、張駿さんは満足している。今後、自分の体力が低下していくことを考えると、適切な転身だったと納得をしている。
橋哥、35歳。スタートアップ企業CTOに転身
橋哥さんは、今年35歳。前職は上海にある著名テック企業でプログラマーをしていた。今の会社は、規模は決して大きくはないが、チームリーダーとなり、親しみを込めてメンバーから「橋哥」(橋アニキの意味)と呼ばれている。
メンバーは、橋哥が決めた業務をこなし、報告をしてくる。自分の手に負えないバグや課題に直面すると、メンバーは大きな声で叫ぶ。「橋アニキ!」。そこに駆けつけて、一緒に問題を解決するというのが、橋哥の仕事だ。
昨年の初め、故郷の同級生が何度も訪ねてくることがあった。起業をしたいので、橋哥にも加わってほしいのだという。彼とは大学を卒業してからも連絡を取る間柄で、数年前に会社を辞めて起業したことは知っていた。その時も誘われたが、遠回しに断った。仕事が忙しく、当時の報酬はよかったので、それを捨てて冒険をする気にはなれなかったのだ。
しかし、橋哥は今回は応じた。同級生が、こう説得してきたからだ。橋哥はもう30代半ば。テック企業の中では危険な年齢だ。いつもリストラされることに怯えていなければならない。だったら、一緒に起業をして勝負をかけてみないか。
橋哥が同級生の誘いに乗ったのは酒の力もあった。二人は故郷で大量の酒を飲みながら話をした。酔って自信がみなぎり、気が大きくなっていたこともあった。翌日、酔いが覚めてからも考えは変わらなかったが、妻にその話をして大喧嘩をすることになった。
今の会社は小さなスタートアップ企業だが、CTOという職にあり、会社が成長して大きくなれば大企業のCTOとなる希望もある。橋哥の仕事は忙しく、996よりも忙しいが、橋哥は充実をしている。自分の体力が低下する前に、この会社を大きくしたいと考えている。
L君、36歳。テックジャイアントに転職
30歳になるまで、L君は自分が北京の大きなテック企業で働くことになるとは思っていなかったという。L君は中小のテック企業を渡り歩いていた。中小企業が好きだったのだ。人間関係はシンプルで、業務の内容も複雑ではなく、残業も少ない。ほぼ毎日定時に退社し、恋人と待ち合わせて夕飯を食べに行く。二人は結婚をして、北京を離れ、L君の故郷である地方都市に移住をし暮らしていこうと話をしていた。そのため、北京でマンションを買うことも考えていなかった。
5年前に、子どもが生まれたことで事情が変わった。子どもが可愛くなり、教育問題を考え始めた。できるだけいい教育を与えてあげたい。それには地方都市に行くよりも、北京で教育を受けさせた方がいい。そのことを妻と話すと、その前にマンションを買う必要があることに思い至った。それも、いい学校があると言われる学区に買う必要がある。当然、マンション価格は安くない。現在の給料では買うことは難しい。
L君は奮起をして、大手テック企業に転職をした。報酬は大きくあがり、ストックオプションまでもらえる好条件だった。仕事は劇的に忙しくなり、残業は当たり前になった。しかし、L君は、子どもの教育のため、マンションを買うために残業を受け入れた。
現在、L君はアーキテクトの地位にいる。時代の進歩に追いつくために、学習は欠かせない。自分の時間というのはほとんどないが、定年までここでやっていくつもりだ。
碼農故事匯はこう結論づけている。ITエンジニア、プログラマーは年齢を不安に思う必要はない。恐れなければならないのは、自分はこのままでいいと考え、将来の準備をあきらめてしまうことだ。
35歳以降にどのような道が開けるかは、いくら考えてもわからない。それはその時の置かれている環境、偶然などによって左右されるからだ。どのような道が開けるにしても、どの道にでも進めるように準備をしておく。そうすれば、35歳以降もエンジニアとして働ける道はいくらでも用意されている。何もせず、今のままでいたいと考えてしまうと、学ぶことも少なくなり、時代に追いついていけなくなる。つまり、35歳定年は、何もせずに、ただ与えられた業務をこなすだけのエンジニアに訪れる中年の危機なのだ。