北京大学の数学の天才である許晨陽は、米国に留学をし、ユタ大学の教授になったが、中国に貢献をするため、帰国することを選んだ。しかし、それから6年、許晨陽は再び渡米する道を選んだ。許晨陽が残した3つの言葉に、中国の人材流出の原因が現れていると地縁歴史档案館が報じた。
7歳で数学オリンピックチームに入った数学の天才
1981年、重慶市で生まれた許晨陽(シュー・チェンヤン)は小さい頃から数学の才能を現した。1998年には、数学オリンピックの四川省代表チームに入り、ほどなく中国代表のナショナルチームに抜擢された。そして、北京大学に入学をし、3年で修士課程に進み、2年で修士号を取得した。
許晨陽は、さらに学ぶために米国のプリンストン大学の博士課程に進学をした。博士号を取得すると、北京大学の指導教官から中国に戻ってこないかと声をかけられた。許晨陽も中国に戻りたいと考えていたが、まだ米国で学びたいという気持ちもあった。そこで、MITの研究生となり、そこで数年学んで、それから中国に帰ることに決めた。
中国に戻った数学の天才が、再び渡米へ
2012年、許晨陽は中国に戻り、北京大学の国際数学研究センターに所属をした。そこでは自身の研究をするだけでなく、後輩の育成も行い、許晨陽の指導を受けたものからは数学コンテストに入賞する者も現れるようになった。
それから6年、すべてが順調に進んでいるように見えたが、許晨陽は唐突に中国を離れ、MITの教授に就任をしてしまった。この行動は、多くの同僚を戸惑わせ、また、中国を捨てたと非難までされることになった。
数学の天才が語った3つのこと
許晨陽は、米国に旅立つ前、あるジャーナリストの取材を受けていた。許晨陽が米国に去った後、そのインタビューが公開された。そこで、許晨陽は3つのことを語っていた。それは、中国のアカデミックな世界に失望をしたという内容のものだった。
1:年功序列の中国のアカデミックな世界
中国のアカデミックな世界は、年功序列が基本になっており、若い研究者が活躍できる場所が用意されていない。研究には膨大な研究費が必要になるが、その多くは先輩たちに分配されてしまい、若い研究者はその先輩の研究チームに入れてもらうしか研究資金を得る方法がない。許晨陽のように国内外で多くの実績を残した研究者でもそうだったという。
それは研究資金だけでなく地位に関しても同じだった。許晨陽は6年間、華々しい実績をあげたのに、学士院(中国科学院の会員)に数度、申請をしていずれも却下されている。先輩たちの中には優秀な研究者もいるが、そうでない人もいる。許晨陽は、子どもの頃から、努力をすれば成果が得られるという感覚で生きてきた。しかし、中国のアカデミックな世界は、努力だけではどうにもならないことがあり、しかも、それが科学の進歩を阻んでいると感じたという。
2:捏造と剽窃が多すぎる
中国の科学界には、捏造と剽窃が蔓延をしている。業績を上げるために、データを捏造して成果をでっちあげる。また、先輩たちは若い研究者の成果を奪い取って、自分の成果として発表をする。許晨陽が研究をしている数学の分野では、天才と呼ばれる人たちでも、華々しい成果というのは若い間に人生で数回あるかないかという世界だ。それを先輩に奪われてしまったら、本当は天才であるのに、研究から離れなければならない人もいるだろう。
3:研究の売買が蔓延をしている
このような状況であるために、研究の売買が横行をしている。先輩の研究者が若い研究者から研究内容を買い、それを自分の成果として発表するのだ。若い研究者は生活のために売ってしまうこともあれば、経験の浅さからその研究の影響力がわからずに売ってしまうことがある。
研究界の古い体質が人材流出を招いている
許晨陽のインタビューには、各方面からさまざまな反応があった。あまりの直言に、「許晨陽は報酬の高い米国に行きたいあまりに、中国を悪く言っている」と非難をする人もいる。一方で、中国のアカデミックな世界の問題点を指摘してくれたのだから、これを改めるきっかけにしないと、中国の人材は海外に流出するだけになってしまうという人もいる。そして、当の研究者たちは、その多くが沈黙をしている。中国のアカデミックな世界は、年々、人材の海外流出が進んでいる。