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北京五輪で復活した中国の花火産業。国際的にも高い評価を受けた中国花火が爆竹禁止で存続の危機に

中国の花火産業は隋唐の時代に遡れるほど歴史がある。しかし、近代になるとその技術は絶えていた。蔡国強という花火アーティストが登場し、再び国際的にも評価をされたが、最近の爆竹禁止令で再び花火産業は危機を迎えていると軍武次位面が報じた。

 

世界の9割の花火は中国で生産されている

世界で生産される花火の9割は中国で生産されている。特に、米国、インド、オランダではほぼ中国製の花火が使われるようになっている。

これだけ中国の花火が広まったきっかけは、やはり2008年の北京五輪だった。特に開幕式で29個の巨人の足跡を大空に花火で描き出したことが中国花火のイメージを変えた。北京五輪は第29回オリンピックであったため、五輪の歴史をたどりながら、北京にたどり着いたという演出だ。

北京五輪で世界を驚かせた巨人の足跡の花火。北京市内の上空を巨人が、オリンピックスタジアムに向かって歩んでいく演出がされた。

▲2008年、北京五輪の花火。この花火を手がけたことにより、蔡国強の名前が国際的に知られるようになった。

 

北京五輪のために花火テクノロジーを開発した礼花工場

この足跡の花火は、河北省衡水市の安平県礼花工場が1年以上かけて研究開発を行なったものだ。この過程で、礼花工場は精密発射システム、無煙発射技術、無残渣技術の3つを開発した。つまり、精密に発射、点火をして、足跡を描き出す。煙があると演出効果が薄れるために煙を出さない、そして、下は市街地であるために火のついた残渣を落下させないというものだ。

花火の玉にはすべて半導体チップが備えられ、コンピュータにより、決められたタイミング、高さ、方向、爆発タイミングが制御された。

従来の花火の概念を大きく変え、花火を大空にアートを描く画材にした。

 

伝説となった花火アーティスト、蔡国強

この花火の開発と演出を監督したのは蔡国強(ツァイ・グオチャン)という花火アーティストだ。

2014年8月には、上海現代美術博物館で、「挽歌」という作品を瞬間展示した。花火により、開花をしたススキを再現した。また、2015年には福建省泉州市で500mの天へ届く梯子をかけた。この天にかかるはしごは、作品ではなく、蔡国強の祖母への100歳の誕生日プレゼントだった。蔡国強はこのプレゼントのために100万ドルをかけた。

▲中国の伝説の花火アーティスト、蔡国強。蔡国強の存在により、中国の花火芸術は一気に国際的に評価されるものになった。

 

海外でも評価される蔡国強

2018年には、イタリアのフィレンツェで「空中花園」(City of Flowers in the Sky)の瞬間展示を行い、世界で最もに複雑な花火芸術だと称賛された。

2022年のカタールワールドカップの開幕式と閉幕式の花火も、蔡国強の作品だ。


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▲蔡国強の作品。2018年、イタリア・フィレンツェでのCity of Flowers in the Sky。世界で最も複雑な花火だと賞賛された。

 

花火のふるさと湖南省瀏陽市

中国の花火生産地は、湖南省瀏陽市、湖南省醴陵市、広西省上栗県、江西省万載県の4つの地域で、80%の花火を生産している。

その中でも最も大きいのが瀏陽市で、花火の故郷とも言われている。花火製造企業が1024社あり、全国の70%の花火を生産している。輸出も盛んで、米国、ロシア、カナダ、ドイツなどが主な輸出国だ。

また、海外の有名な花火フェスティバル、たとえば、フランスのエッフェル塔の花火イベント、英国ロンドンの花火ショー、ドバイの新年の花火なども、ほぼすべてが中国製花火が使用されている。

 

隋唐の時代から花火を生産していた瀏陽市

中国の花火は隋唐の時代に始まり、宋代に盛んになった。当初は爆竹が中心で、富裕層の娯楽品として楽しまれた。その後、祝い事がある時に爆竹を鳴らす習慣が広がり、次第に花火ショーは大掛かりになっていった。この時、花火を供給していたのが瀏陽市だ。

しかし、清朝以降、中国は動乱の時代に入り、花火技術の進歩も止まってしまった。1949年に新中国の成立の夜、天安門広場で花火が打ち上げられたが、中国産ではなく、ソ連製の花火が使用された。しかも、花火ではなく、軍事用の信号弾だった。中国の花火産業は死に体になっていたのだ。

▲中国では隋唐の時代から爆竹が楽しみのために用いられていた。

▲新中国が成立した1949年、歴史のある中国の花火産業は死に絶えていたため、記念式典はソ連製の信号弾が使われた。

 

新中国10周年記念式典で花火産業が復活

1959年、新中国成立10周年の国慶節の記念式典に花火を打ち上げる計画があり、政府当局は全国の花火専門家を北京に招集して、研究開発を進めさせた。

蔡国強は、これに刺激をされ、1961年に瀏陽市で花火研究所を旗揚げして、花火の研究を始めた。70年代以降、蔡国強の花火は全国で使われるようになったが、国際的な水準から見ると、技術面でも演出面でも明らかに遅れているものだった。1984年に、モナコで開催された国際花火コンテンストに中国を含む5カ国の代表が参加をしたが、中国は最下位だった。

これは中国にとって非常に屈辱的なことだった。そこで、政府は花火の生産地である瀏陽市に新世代花火の研究開発をさせ、1986年のモナコ国際花火コンテストで優勝することが任務とされた。瀏陽市輸出花火工場の工場長となっていた蔡国強は、日本、フランスの花火生産を視察し、研究開発を進め、1年半をかけて、コンテスト参加用の花火を開発した。

そして、1986年のモナコの大会で優勝をし、中国花火が国際的に認識されるようになった。その後、1992年にはモントリオール国際音楽花火大会、2006年にはスペインの国際花火大会で優勝し、中国花火の地位を築いていった。

2012年のロンドン五輪開会式では、全体の3/4が中国花火となり、2014年のソチ冬季五輪では半分以上が中国花火となり、2016年のリオ五輪では85%が中国花火となり、国際大会で中国花火が使われることはあたり前のことになった。

 

爆竹禁止で中国花火は冬の時代に

しかし、中国花火は冬の時代を迎えている。肝心の中国内で、火災や大気汚染を防ぐために、春節期間に爆竹が禁止になってしまったからだ。2018年には年間生産額は670億元だったが、2020年には500億元にまで縮小をしている。

花火生産企業は小規模な企業ばかりで、上場をしているのは元瀏陽花火工場である「ST熊猫煙花」(ST Panda Fireworks)しかない。しかし、このSTパンダも業績が縮小している。2014年には1.64億元の売上があったが、2022年には1.43億元になっている。

▲中国の花火工場では、まだまだ手作業が多く用いられている。世界の90%の花火を生産しながら、生産技術は遅れたものになっている。

 

崖っぷちに立たされる中国花火産業

あいかわらず、中国花火は世界に輸出されているが、全世界の90%の花火が中国製であるのに、利益ではわずか10%未満でしかない。つまり、技術力のない低価格花火の分野でしか存在感を示せていないのだ。

各花火企業は、機械化、自動化を進めているが、圧倒的に足らないのは、技術力と演出力だ。伝統的な花火だけではなく、現代の消費者の心をつかめる花火を企画できるかどうかが求められている。

蔡国強という国際的に有名な花火アーティストを生みながら、中国花火は崖っぷちに立たされている。

▲中国のトップ花火メーカー「ST熊猫煙花」の製品。中国産の花火は、いまだに低価格であることがウリになっている。