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4つの経済特区の現在。最も期待された汕頭はなぜ落伍をしたのか

1980年に、アモイ、汕頭、深圳、珠海の4都市が経済特区に指定をされた。深圳の成長ぶりは誰でも知っているが、汕頭については名前すら知らない人が多い。汕頭は従来の産業構造を温存したことで、経済成長に乗り遅れてしまったと新出行が報じた。

 

深圳だけはない4つの経済特区

中国政府は、1980年に4つの都市を経済特区に指定した(1988年に海南島が追加)。税の減免などの優遇措置の他、自由経済都市として、経済発展の起爆剤にすることを目指していた。その4都市は、アモイ、汕頭(シャントウ、すわとう)、深圳、珠海(ジューハイ、しゅかい)。最も有名なのは深圳で、世界有数のハイテク都市に成長をしたことはよく知られている。

ところが、アモイ、珠海の2都市は日本でも知っている人が多く、それなりの存在感を得ているが、汕頭という都市のことは多くの人が知らない。実際、2021年のGPDを見ても2930億元であり、都市階級分類では三線都市に分類される。都市階級は一線、新一線、二線…となり、二線都市までが大都市と呼ばれる。深圳は一線、アモイ、珠海は二線都市で、大都市となったが、汕頭は三線都市で地方都市のまま成長が止まってしまっている。

▲汕頭の街並み。典型的な三線都市で、懐かしい風景が残っている。

▲4つの経済特区の2021年のGDP。深圳のGDPが大きすぎて、残りの3つの経済特区の影が薄くなっている。

 

経済特区から脱落してしまった汕頭

一人あたりのGPDを見ると、汕頭の落伍ぶりがはっきりとする。深圳の2021年の1人あたりのGDPは17.46万元だが、アモイ、珠海もほぼ同じレベルの一人あたりGDPを確保している。ところが、汕頭に関しては明らかに落伍をしてしまっているのだ。

このため、一部では汕頭は経済特別区ではなく、経済困窮区とも呼ばれることがある。

▲4つの経済特区の2021年の1人あたりのGDP。アモイ、珠海も1人あたりGDPでは深圳に肩を並べている。汕頭だけが落伍をしてしまっている。

 

深圳の影に埋もれてしまった汕頭

しかし、汕頭が経済特区に指定されたのはあながち間違いだったとも言えない。経済特区が指定された1980年のGPDを見ると、汕頭は4都市の中で最も高かったからだ。当時の深圳は、非常に小さな田舎町で、現在の繁栄ぶりは影も形も見られない状況だった。

汕頭がまったく成長しなかったわけではない。1980年と2021年のGPDを比べると271.5倍にもなっている。同じ期間の成長率は、世界のGDPでは8.51倍、米国の場合で8.16倍なのだから、汕頭の成長は奇跡ということもできる。しかし、深圳の常識外れの成長ぶりにより影が薄れてしまっている。

▲4つの経済特区の1980年からの成長率。深圳が1.14万倍という奇跡的な成長を認め、その他の経済特区が霞んでいるが、汕頭も270倍にはなっている。

▲汕頭も発展をしなかったわけではない。1980年から比べると271.5倍にも成長をしている。しかし、深圳の成長がすごすぎて、影が薄くなってしまっている。

 

ターゲット都市が存在しなかった汕頭

4つの経済特区の設置には明快な戦略があった。それは当時の中国では、経済を解放しただけで自力で発展することは難しく、すでに発展をしている海外の力を利用して発展しようという戦略だ。そのため、4つの経済特区にはターゲットとする都市があった。

深圳の場合は香港だ。深圳と香港は隣り合った都市で、出入国の手続きに時間がかかることを加味しても日帰りで行き来することができる。香港は自由貿易都市で、そこから輸入した海外製品を中国国内に中継する場所として深圳はうってつけだった。後に電子製品の輸入都市として深圳は栄え、さらに電子製品の製造業が興っていった。

珠海にはマカオ、アモイには対岸の台湾という頼るべき発展都市があった。しかし、汕頭には頼るべき都市がなかった。

 

華僑の故郷、汕頭

それなのに汕頭が経済特区に選ばれたのは、華僑の存在だ。汕頭は元々小さな漁村であり、農地も少ないため、多くの人が海外に出ていき、汕頭華僑として海外で商売をするということが行われていた。先頭華僑は当時500万人もいて、100カ国以上に広がっていた。

そのため、汕頭は1860年という早い時代に通商港として整備され、新中国成立前の中華民国時代には全国で3番目に大きな港となり、7番目に大きな商業都市になっていた。華僑のネットワークで、輸出入が行われたからだ。

▲1980年、経済特区が設定された時の1人あたりのGDP。汕頭は圧倒的に発展していて、有望な経済特区だった。

▲汕頭は華僑の故郷であり、1860年という早い時期に通商港として整備された先進都市だった。新中国成立以前は、全国第7位の商業都市だった。

 

特区となって農業が発展してしまった汕頭

このため、汕頭は経済特区となってすぐに貿易で栄えることになったが、1980年当時、貿易の産物として重要だったのは農産物であり、汕頭では経済特区であるのに農業などの第一次産業が発展をしてしまった。

深圳は同時期に家電製品や電子製品などの製造業=第二次産業が発展をしていくが、汕頭は1980年代前半という重要な時期に、製造業の発展が遅れてしまった。1980年代の汕頭は電力不足に悩み、工場の誘致も進まなかった。電力に関する不安が解消されるのは1996年に、華能火力発電所ができてからのことだ。1990年には製造業が成長をし始めるが、すでに製造業の中心は深圳や珠海になっていた。

2000年になっても、汕頭から出荷される輸出品は、衣類織物、プラスティック玩具、陶磁器などの低付加価値製品が主体になっている。

▲汕頭の産業構造の変遷。従来の枠組みを温存したために、経済特区になって農業が発展してしまった。1990年代に軌道修正を図ったが、その時には他の都市での経済成長が始まっていて、手遅れになっていた。

 

経済が成長しても、守りの姿勢では落伍をする

汕頭は4つの経済特区がスタートした時に、最も力のある優等生だった。その優等生ぶりに慢心をしてしまい、経済発展の戦略を描くことなく、従来の枠組みをただ拡大しようとした。それが落伍をすることになった理由だ。

深圳を始めとする中国の都市が奇跡のような発展をしてきたのは、決して時流に乗っただけではない。それぞれの都市が成長戦略を描き、それを実行してきた結果なのだ。