生成AIを利用すると、誰でも芸術写真や美しいイラストを生成することができる。写真家や絵師はすべて失業するとも言われている。しかし、それはほんとうだろうか。海傑さんはMidjourneyで写真を生成し、ネットで発表することで、AI写真家と呼ばれるようになっている。その海傑さんに撮影世界が話を聞いた。
Midjourneyを使う写真家、海傑さん
海傑さんは、生成AI「Midjourney」を使い、さまざまな写真作品をつくり、ネットに発表している。それは写真家が現地に行って撮影をしたようでもあり、夢の中で撮影をしたようにも見える。その不思議なタッチから、写真が現実を切り取る芸術だとすれば、海傑さんの写真は架空の世界を切り取る芸術として鑑賞をするファンが増えている。
偶然生まれた作品
撮影世界:あなたは写真家ですか、それとも評論家でしょうか?どう呼ぶべきでしょう?
私は生成AIの体験者です。多くの人と同じように、Midjourneyで遊んでいて、「曇りの日、長江三峡のボートの上で、抱き合う中国人の夫婦」というプロンプトを入れてみたところ、とても感動的な写真が生成されたのです。中国で有名な写真家である顔長江や木格の作品を思い出しました。
それで意識的にAIを使った作品をつくるようになり、どんな効果が出るのかを試していきました。プロンプトを工夫することにより、ファッション写真とドキュメンタリー写真の中間をねらっていきました。AIって、けっこう面白いなと思いました。
現在可能なのは、ポートレイトか風景写真
撮影世界:つまり、あなたの作品は、イメージからではなく、すべてテキストのプロンプトから生まれたものなのですか?
そういうことになります。私の作品には、現代中国の写真家たちに敬意を表したものがたくさんあります。例えば、馮立や張暁の作品に対する知識を活かして、そこに私の解釈を載せてプロンプトをつくっています。
しかし、まだまだ課題もあります。ポートレートのようなものは非常に精密に生成されますが、遠景の中の人の描写にはまだまだ問題があります。目がない人ができたり、髪の毛がない人ができたりします。そのため、ポートレートか風景写真をつくることを余儀なくされています。
小麦畑の夫婦の作品で有名に
撮影世界:話題になった小麦畑で横たわる夫婦の写真はどのように制作されたのでしょうか?
あれは小麦畑ではないんですね。「内モンゴル自治区の草原の草むらで寝そべる若い夫婦」のような簡単なプロンプトで生成したものです。私のねらいよりも深い草むらになってしまいました。実はよく拡大してみると、女性の顔の左側にアルゴリズムがおかしいところがあるのですが、全体には影響しないと考えて、作品にしました。
AI写真もいずれ受け入れらる
撮影世界:あなたの作品を見ていると、写真という芸術が劇的に変わろうとしていることを感じます。作品をつくりながら、そのようなことに意識をされているでしょうか?
写真には写真の優位性があります。AI写真は、出力に時間がかかり、さまざまな操作が必要になります。また、AI写真は、現実とは乖離したつくった感じが付きまといます。しかし、双子の赤い服を着た女の子の写真をつくったところ、現実と見分けがつかない仕上がりながら、なんとも言えない場違いな感じがあることに気がつきました。
アナログ写真からデジタル写真になった時、私は最初、シャープすぎて受け入れることができないと感じました。しかし、しばらくすると、世の中も私もデジタル写真を受け入れています。AI写真でも同じようなことが起きるのではないかと思っています。
私の過去を目撃するAI写真
撮影世界:写真が誕生をした頃、写真の最大の意義は目撃をすることでした。世界で起きているさまざまな現実を切り取り伝えることが写真の役割でした。しかし、AI写真は目撃するという意味は失われます。AI写真はどのような価値を持っているのでしょうか?
確かにAIは画像を見ることの意味を変えていますが、写真にはAIでは置き換えられないものがたくさんあります。現地に行って撮影をし、その場に備わっている力を写真に表現するというのは何者にも変え難いものがあります。
私がAI写真でやっていることは、私の過去を目撃することです。AIで私の子どもの頃を探し、記憶と描写とAIを駆使して、写真では捉えることのできない子どもの時の感情を再現しようとしています。
AI写真は写真家にとって破壊的
撮影世界:写真とAIの関係は、共存、代替、補完のいずれだと思われますか?
破壊的な関係だと思います。写真にはならない程度の短いプロンプトを入れても、生成AIは写真を生成してくれます。写真家にできることはAIはできてしまいます。まだまだAIのアルゴリズムの至らない点がありますが、それが解決されてくれば、AIは写真家の活動の多くを行うことができるでしょう。
AI写真でも写真の美学は必要になる
撮影世界:写真が誕生して200年近くとなり、その間にさまざまな美学理論が蓄積されてきました。AI写真ではこのような美学理論は必要なのでしょうか、それとも不要になるのでしょうか。
これまで蓄積されたさまざまな理論はとても重要だと思います。AI写真は、何もないところから生み出されるのではなく、これまでの優れた作品から構図や表情を集めて再構成したものにすぎません。最後に作品として、それを選ぶのは、写真家のそれまでの視覚体験からくる美学によるものです。すべてが過去に蓄積された理論に基づいたものです。
生成AIにもすでにルールは導入されている
撮影世界:AI技術により、本物と偽物の区別が難しくなり、将来、何を信頼するのかが問題になるのではないかと心配しています。
私は、あまり心配する必要はないと思っています。例えば、AIがない頃から、人々はフェイクニュースやデマに踊らされてきました。すでに生成AIにもルールが生まれています。例えば、公序良俗的な問題がある「ヌード」というキーワードは、プロンプトとして入力することができません。「入浴」もNGワードです。また、著名人の顔を生成しようとしても、米国大統領と亡くなった著名人を除いて、正確に顔が再現されません。
生成AIも世の中の慣習に近づいていく
撮影世界:著作権、倫理、法律などに対してAIが破壊的な変化をもたらすということについてはどうお感じですか?
さまざまな生成AIが登場しています。生き残るためには、人に不快感を与えないようにする必要があり、そこを無視する生成AIは消えていくことになるでしょう。国内外で、多くの生成AIが競い合うことで、世の中の慣習に近づいていくと感じています。
写真はカメラを必要としなくなるのか
撮影世界:写真はカメラと密接な関係がありましたが、AI写真はカメラを必要としていません。これは写真なのでしょうか?
今後、新しい言葉が出てくるのか、そこはよくわかりません。しかし、機材も必要ではなく、写真という呼び方が適切ではないのも事実です。AIはもはや特別なものではなく、現実生活の中で使うものになっており、抖音や快手などのショートムービープラットフォームのような身近な存在になっていくのだと思います。私たちは、もはや対面をしたリアルなコミュニケーションを取らなくなり、SNSやショートムービーを介在にしたコミュニケーションをとるようになっています。写真も、カメラで直接撮影するのではなくなっていくのかもしれません。
人類が手にした新しい道具ーー生成AI
AIは写真をどのように変え、私たちの生活をどのように変えていくのか。その決定的な答えは誰も持ち合わせていない。しかし、それが何であれ、人類の文明の発展過程の一部になっている。人類は、新しい道具を手にした時には、常に戸惑い、苛立ち、不安を感じてきたが、次第にそれを使いこなすようになる。AIもそのようなプロセスが進んでいる。