2008年に開催された北京五輪の開会式では、赤いドレスを着た7歳の少女、林妙可が「歌唱祖国」を熱唱した。しかし、この歌声が事前に録音された別人のものであるということが明らかになり、五輪運営委員会だけでなく、林妙可にまで非難が殺到した。その林妙可も今や23歳。林妙可が現在どうしているのかを艾弥児が報じた。
批判され続けた独唱の少女
北京五輪の開会式で、印象的だったのが7歳の林妙可(リン・ミャオカー)の独唱だった。第二の国歌とも言われる「歌唱祖国」を堂々と独唱し、その愛らしい姿と凛とした姿が多くの人の印象に残った。それだけに、この歌声が別人のもので口パクだったことが判明した時の人々の落胆も大きかった。運営委員会が批判されるのは当然としても、林妙可も直接批判にさらされた。それから15年、林妙可は批判の対象になり続けながら成長をした。どこに行っても批判をされ、成長してからもあの少女であることがわかると批判をされた。
▲2008年北京五輪の開会式での独唱。世界中の人が心を動かされた歌唱だったが、後に口パクであることが発覚をし、林妙可は批判をされ続ける人生を歩むことになった。
愛らしさからキッズモデルとしてスカウト
林妙可は、1999年7月に北京市で生まれた。父親は「法制晩報」の記者、母親は高校の教師という家庭だ。祖父は有名な画家で、伯父は書道家でもある。芸術と知性のある家庭で育った林妙可は、歌とダンスに夢中になった。
2001年、両親が2歳の林妙可を連れてショッピングモールに買い物に行くと、子ども服のプロモーションイベントが行われていて、林妙可にも子ども服を着て、ステージに立ってみないかと誘われた。林妙可は自分からやってみたいと積極的になり、ステージを歩いたが、多くの観客がその愛らしさと物怖じをしない態度に息を呑んだ。それ以来、林妙可は子ども服のモデルをし、音楽とダンスを習うことになった。
著名なスターとも共演
記者をしていた父親は、著名人にインタビューをする時には、林妙可を連れていくようにした。華々しい世界の空気を吸わせることは必ずプラスになるし、著名人と会うことで娘に何かの機会が与えられるかもしれないと考えたからだ。
父親の思惑はあたり、瞬く間に林妙可はキッズモデルとして、著名なスターたちと広告で共演をすることになった。
最終選考に残った二人の少女
この当時、北京五輪の開会式の準備が進んでいた。開会式の総責任者となった映画監督の張芸謀(チャン・イーモウ)は、第二の国歌とも言われる「歌唱祖国」の独唱をプランに入れたが、問題は誰に歌わせるかだった。チャン・イーモウは、子どもに独唱させることを提案した。なぜなら、子どもは祖国の未来を象徴しているからだ。これにより、難しい「歌唱祖国」を歌える歌唱力のある子どもの発掘作戦が始まった。
2008年6月にチャン・イーモウが出席をした選考会が行われた。この時、合格をしたのが林妙可だった。チャン・イーモウはルックス、歌唱力ともに満足をした。同時に選考された2人とともに、林妙可は厳しいレッスンの日々を送ることになった。
2回目の選考で、林妙可と楊沛宜(ヤン・ペイイー)の2人に絞られた。しかし、どちらを五輪の大舞台に立たせ、どちらを代役として控えに回すかは決められなかった。
楊沛宜は、林妙可よりも2歳年下だが、歌唱力に優れたものがあり、北京市海淀区の独唱コンクールで優勝した経験も持っていた。歌唱力では楊沛宜、ルックスでは林妙可と運営委員会の意見は割れていた。
主役は林妙可、代役は楊沛宜との決定
2008年7月16日、会場でのリハーサルが始まった日、林妙可はそれに呼ばれず、自宅待機を命じられ、リハーサルは楊沛宜が行なった。林妙可の父親は、娘の落胆ぶりに心が引き裂かれそうになったという。生まれて初めてというほど泣き、食事も取れなくなってしまった。
しかし、それは運営委員会との意思疎通不足が原因だった。担当チームは、林妙可があまりにも練習熱心であるため、声がかすれてきたことを心配していた。そのため、数日は休ませた方がいいという判断をした。これがうまく伝わらずに、林妙可は落選をしたと勘違いをしたようだ。
チャン・イーモウの中では、すでに独唱をするのは林妙可と決めていた。映画監督らしく、視覚的な魅力を持つ林妙可を選んだようだ。しかし、チャン・イーモウは練習のしすぎにより、林妙可の声がかすれてきていることを心配していた。これをどうするべきか。チャン・イーモウを中心とする会議で議論が始まった。
そこで、決まったのは、林妙可に独唱をさせる方針でいくが、万が一のことを考えて代役の楊沛宜に歌わせた録音を用意しておくということだった。
本人は口パクが流されたことを知らなかった
開会式本番の当日、林妙可がマイクとイヤーモニターをつけてステージに立った。林妙可はモニターから流れる伴奏に合わせて熱唱をした。しかし、マイクはオフにされていて、会場に流れたのは代役の楊沛宜の歌声だった。林妙可自身は、会場に自分の歌声が流れたと信じていた。楊沛宜は会場で、林妙可のパフォーマンスを見ていたが、流れていた歌声は林妙可のものだと信じており、まさか自分の歌声が流れていたとは気づかなかったという。
しかし、翌日、音楽監督の陳其鋼氏が、メディアに対して口パクだったことを明らかにしてしまい、林妙可は混乱をした。そして、ネットには運営委員会に対する批判だけでなく、林妙可に対する非難も大量に投稿された。つまり、林妙可は歌の才能はないのに、ルックスがいいことを武器に、不正な手段を使って運営委員会に取り入り、主役の座を射止めたのではないのかというありもしない疑いをかけられたのだ。
15年、批判され続けながら少女は成長した
それから15年間、林妙可はこの問題から離れることはできなかった。歌とダンスを学び続けた林妙可は、さまざまなイベントに参加をするようになる。しかし、その度に、会場やSNSで「口パク事件の真相を明らかにし、自分の責任を明らかにすること」を求められる。イベントで獲得した賞金を、被災地などに寄付をすると、偽善だと責められる。
そのようなことがようやく収まったのは、2017年に南京芸術大学に入学をしたあたりからだという。大学を卒業した林妙可は、舞台に立つ夢を今でも追いかけている。