スマホシェアの低下が続くファーウェイだが、創業以来最大の危機というわけではないという。ファーウェイ最大の危機は、2003年の「ファーウェイの冬」だ。モトローラーへの売却交渉が進められ、土壇場でキャンセルされた。そこから、ファーウェイは世界企業への道を歩み始めたと千里月明が報じた。
ファーウェイのスマホシェアが急落
米国政府によるファーウェイ製品排除の影響が深刻だ。Counterpointの世界でのスマートフォンシェア2021Q1によると、最高で20%のシェアを取り、サムスン、アップルとともにシェアトップの座を争っていたファーウェイのシェアは現在4%。サブブランドのオナーを分離独立させた影響もあるが、第6位まで後退をした。
その代わりに浮上したのが小米(シャオミ)とOPPO(オッポ)だ。ファーウェイにとっては非常に厳しい状態が続いている。
▲2018年からのスマホシェア推移。2019年までは、サムスン、アップル、ファーウェイがトップの座を競い合っていたが、ファーウェイが脱落をした。その代わりに、小米とOPPOがシェアを伸ばしている。
ファーウェイは意外にも楽観的
しかし、意外にもファーウェイの関係者は楽観的だ。もちろん、厳しい状況であることは確かだが、2003年の「ファーウェイの冬」に比べれば、まだ苦しみは小さいからだという。この時、ファーウェイの創業者、任正非(レン・ジャンフェイ)は、ファーウェイを売却することを決意し、海南島のシェラトンホテルで調印式を迎えるために、礼服に着替えるところまでいった。もし、そのまま会場に向かっていたら、この世にファーウェイという企業はなくなっていたかもしれない。それに比べれば、今の苦境は、ファーウェイがなくなってしまうほどのことではないのだ。
▲ファーウェイ最大の危機「ファーウェイの冬」。創業者の任正非はその時のことをまとめた文章を社内出版した。
ファーウェイを追い詰めた傾城の男
ことの起こりは2000年に、入社4年目の李一男(リ・イーナン)が27歳で最年少の副総裁に就任したことだ。任正非はこの若い従業員を高く評価していた。「この若者は素晴らしい。問題を深く洞察することができる。もし、私が個人に投資をするとしたら、間違いなく李一男に投資をする」とまで語ったことがある。
李一男は、その言葉通り、ファーウェイが開発したIP通話、NGN(次世代ネットワーク技術)、MSTP(Multiple Spanning Tree Protocol)などの技術に基づいたソフトウェア、ハードウェアを政府機関や大企業向けにコンサルをしながら販売する部門を社内起業した。
これがうまく軌道に乗り、李一男は「港湾網絡」という企業として北京で独立することになった。李一男の送別会には、任正非も参加をし、港湾網絡とファーウェイはその後も良好な関係を保ち、ファーウェイ製品を販売してくれるものだと誰もが思っていた。
しかし、港湾網絡は、新規の顧客を開拓するのではなく、ファーウェイの顧客を奪い始め、ファーウェイではなく独自に開発した(と称する)技術を売り始めた。港湾網絡は、ファーウェイから顧客と技術を奪うことで、わずか3年間で売上が1.47億元から10億元突破をするところまで急成長をする。ファーウェイはその分の売上が落ちることになってしまった。
▲モトローラーとファーウェイの売上高の比較。買収話が合った2003年には、ファーウェイはモトローラーと比べるとケシ粒のように小さな企業にすぎなかった。しかし、そこから業績は伸び続けている。
ファーウェイの冬
一方、ファーウェイが先んじて研究開発をしていた3Gの普及が進まず、3G関連設備の売上が伸びずにいた。その隙に、ファーウェイのライバルであった中興通訊(ZTE)が3G CDMA技術で追いついてきて、ファーウェイのビジネスが厳しくなっていった。
内と外に問題を抱え、ファーウェイの営業収入は1999年よりも35億元も減少し、ファーウェイは創業以来の危機を迎えた。任正非はこの時のことを、後に、「ファーウェイの冬」という書籍にまとめて社内で出版している。
「物極必反」ファーウェイの内部崩壊も始まる
中国には「物極必反」という言葉がある。物事が頂点を極めると、あとは反転して坂を転げ落ちていくという意味だ。当時のファーウェイはまさに物極必反になった。元従業員がファーウェイのビジネスを蚕食していることを知って、中には自分も同じやり方で儲けたいと考え、ファーウェイを辞職して、ファーウェイの顧客を奪うものが現れ始めた。内部でもあちこちが対立が起こり、ファーウェイの開発した技術が実質的に流出し放題になってしまった。
進められたモトローラーへの売却交渉
2003年、任正非は米モトローラーに接触して、ファーウェイの売却について話し合うことになる。
2003年5月、モトローラーのマイク・ザフィロフスキーCOOが、深圳のファーウェイを訪問した。買収交渉が目的だった。当時のモトローラーの売り上げは300億ドル(約3.3兆円)を超え、ファーウェイはようやく100億元(約1700億円)を超えたところだった。
6ヶ月間の交渉により、ファーウェイ買収の形が決まってきた。モトローラーは75億ドルでファーウェイの株式の100%を購入する。ファーウェイの6つの部門のうち、3つは中国に残し、3つは米国モトローラーに吸収をするというものだった。
▲海南島のリゾートで、ファーウェイの買収について話をする任正非とマイク・ザフィロフスキー。調印式の直前に、この買収話はキャンセルをされた。
調印間際の土壇場で消えた買収話
2003年12月、正式調印の日がやってきた。任正非は、ファーウェイの経営陣を伴って、海南島のシェラトンホテルに宿泊し、礼服に着替え、調印式の会場に向かおうとしていた。しかし、現場に到着したマイク・ザフィロフスキーCOOは、悪い知らせを携えていた。
マイク・ザフィロフスキーCOOの後ろ盾となっていたクリストファー・ガルビンCEOが業績不振から辞職をし、エドワード・ザンダーが新しいCEOに就任をした。しかし、ザンダーCEOはファーウェイ買収にまったく興味がなく、買収交渉を停止するように命じたというのだ。あとは調印するだけになっていた買収話は、これ以降消えることになった。
ファーウェイ、ゼロからの再生
売却ができなくなった任正非は、ファーウェイ内部で今後の身の振り方を徹底的に議論をした。その中で出てきたのがファーウェイの再生だ。経営が苦しくなったファーウェイが生き延びるために米国企業の助けを借りるというのは誤りだった。米国企業と関わりを持つのであれば、このような上下関係がある中ではなく、それぞれの頂上企業として合い見えるべきではないか。そういう結論となり、苦しくてもゼロからファーウェイを再生させていくべきという方針が固まった。
そして、ファーウェイは狼になった。港湾網絡とZTEを目標にし、徹底した消耗戦を仕掛けていった。特に港湾網絡に対しては、「売上を削り取る」「上場させない」の2つを目標にして総力戦を行なった。ファーウェイから港湾網絡に移ったエンジニアたちを逆に引き抜き仕返して、港湾網絡の技術力を奪った。2006年6月、港湾網絡は白旗を挙げ、ファーウェイに買収されることになる。
ファーウェイの冬があったから、現在がある
このファーウェイの冬が重要なのは、このことがあったからファーウェイはさらに大きく成長をすることができたことだ。結果的にファーウェイの第2創業になった。それ以来、ファーウェイは世界企業の階段を登っていくことになる。
一方、ファーウェイの買収を放棄したモトローラーは、そこから物極必反の道をたどり始め、2010年には無線事業部門が12億ドルでノキアシーメンスに売却されることになり、ここからモトローラーの解体が始まっていく。モトローラーにとってケシ粒のようにしか感じなかった極東の企業ファーウェイは、現在では当時の60倍の売上を上げている。
当時を知っているファーウェイの人間にしてみれば、あの時ほどの危機は他になく、現在の苦境はせいぜい秋寒程度のことでしかないのだ。