中華IT最新事情

中国を中心にしたアジアのテック最新事情

ファーウェイの創業者、任正非が敬愛される理由。中国の辛い時代を生き抜いた苦労人

中国テック企業の経営者の中で、市民から敬愛されているのは、アリババの創業者ジャック・マーとファーウェイの創業者、任正非(レン・ジャンフェイ)の2人だ。2人も中国の貧しい時代に生まれ、成功をしたチャイナドリームの体現者だからだ。特に、任正非は、極貧家庭に生まれ、度重なる不幸を跳ね除けながら、44歳になってファーウェイを創業し、ようやく成功をつかんだ。それが、任正非が敬愛される要因になっていると1号紀実が報じた。

 

HAT経営者は、国内大学を卒業した第1世代経営者

中国のテック企業を表す言葉に、BAT(百度、アリババ、テンセント)という言葉があるが、最近ではHAT(ファーウェイ、アリババ、テンセント)という言葉も使われるようになってきている。百度バイドゥ)がネット広告などの売上を落としたためだ。ファーウェイは、戦略的に上場をしない方針なので、企業価値ランキングなどには登場しない。しかし、売上を考えると、アリババとテンセントの合計を超えており、中国屈指のテック企業だと言って差し支えない。

さらに、このHATという言葉は、中国人にとって座りがいい。なぜなら、HATの創業者たちは、いずれもテック企業経営者の第1世代であり、国内大学の卒業組だからだ。さらに、テンセントの創業者、ポニー・マーは経済的にも余裕のある家に生まれたが、アリババの創業者、ジャック・マーの家は貧しく、ファーウェイの創業者、任正非(レン・ジャンフェイ)の家は極貧家庭だった。

一方で、百度の創業者、ロビン・リーは経済的にも余裕のある家に生まれ、北京大学卒業後、ニューヨーク州立大学に留学をし、米インフォシークで働くという海外組だ。中国人にとって、やはり人気があるのは、国内で貧しさから脱却をした経営者であり、その中でもジャック・マーと任正非の2人は特に人気が高い。ジャック・マーは、自分の夢に向かって突き進んだ情熱の人。任正非は、苦労に苦労を重ねた辛抱の人というイメージだ。

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▲ファーウェイの創業者、任正非。中国の貧しく辛い時代を生き抜き、成功をつかんだ経営者として、人気がある。

 

お腹いっぱい食べたという記憶がない

任正非は1944年生まれ。貴州省の鎮寧県の山の中の貧困村に生まれた。父親は村の中学の教師をしていて、7人兄弟姉妹の長男だった。貧乏人の子だくさんという言葉を絵に描いたような家庭で、両親ともに働いていたが、生活はいつもぎりぎりだった。あちこちからお金を借りても、いつも子どもたちは空腹だった。

任正非の回想によると、家の床には一面藁が敷いてあり、子どもたちはお腹いっぱい食べたという記憶ない。任正非も、高校を卒業して初めてシャツというものを着たほどだという。任正非は言う。「生き延びるという言葉の本当の意味を、私はものごころついた頃から理解していた」。

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▲任正非の両親と任正非。両親は貧困村の教師だった。家は貧しく、子どもの頃にお腹いっぱいご飯を食べたという記憶がないという。

 

貧困の中で大学進学をした任正非

任正非の祖父は、ハムを作る職人だった。父親の兄弟は誰も上級学校に進んでいないが、任正非の父は学問で身を立てようとし、大学に進学をした。学生運動にも参加をし、抗日活動や中国共産主義青年団にも参加をした。しかし、そのせいで、貧困の村の教師の仕事しか得られなかった。

任正非の両親は貧しかったが、学問を修めることを重要視し、ご飯は食べられなくても、子どもたちに勉強を続けさせた。貧しい中で進学資金も貯めていた。それで、1963年、任正非は重慶大学の建築学科に進学することができた。

 

貧困と理不尽が任正非を勤勉にさせた

しかし、在学中の1967年に、文化大革命が始まり、父親は反革命的だとして、言われのない罪で投獄されることになってしまった。任正非が急いで家に帰ると、父親は大切に履いていた革靴を任正非に渡し、こう言ったという。「知識こそ力だ。周りが学ばなくても、お前は学べ。周りに流されてはいけない。弟や妹を助けてやってくれ」。

このことが、任正非を尋常でないほどまでに勤勉にしたという。貧困や理不尽な困難から抜け出すには、学問しかないと考えたのだ。大学に戻った任正非は、建築学だけでなく、独学で電子計算機、数学、自動制御、哲学、外国語などを学んだ。

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文化大革命時代の中国。任正非はこの運動に翻弄され続けた。言われのない罪で多くの人が罪に問われる時代だった。

 

不遇だった人民解放軍時代

大学を卒業しても、文化大革命の真っ只中では、仕事もない。それで仕方なく、任正非は人民解放軍に入隊をし、建築兵となった。すぐに食べられる就職口だったからだ。軍用の飛行機工場や、飛行機エンジン工場の建設に従事した。

しかし、どれだけ成果を上げても、なかなか昇進できなかった。父親が文化大革命の犯罪人であるということが常に問題になったからだ。任正非は、人民解放軍でも学ぶしかなかった。知識を蓄えることでしか、理不尽さから逃れる方法が思いつかなかったのだ。

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人民解放軍時代の任正非。文化大革命で父親が罪に問われたため、いくら成果をあげてもなかなか評価してもらえなかった。

 

他人は他人。自分はひたすら勤勉であり続ける

1976年、32歳の時に、初めて、ある機器を改良したことで、人民解放軍から表彰された。しかし、任正非は冷めていたという。もらった賞品も周りの人たちにあげてしまったという。いつの間にか、任正非は人と争うことをしなくなっていた。ただ、自分が学んで、先に進んでいくだけで、誰かより秀でようとか、誰かより褒められたいという気持ちがまるでなくなっていたという。

 

中年になっても、犬以下。不運が重なる任正非

1982年に入ると、中国政府は膨大に膨れ上がった人民解放軍のリストラを始める。任正非は真っ先にリストラ対象となった。仕方なく除隊をし、妻子を連れて、深圳に行き、国営企業である南油集団傘下の電子機器企業の副社長に就任をした。

しかし、副社長といっても、この企業はお金もなければ仕事もないという状況で、任正非はこの企業をなんとか立て直さなければならなかった。学問に関する知識は蓄積があったものの、ビジネスに関する知識はない。悪戦苦闘する中で、任正非は悪い人間に200万元(約3100万円)を騙し取られてしまった。都市の平均給与が100元(約1500円)に満たない時代だ。

この責任をとって、任正非は辞職をすることになる。しかも、最悪なことに、妻が離婚を切り出してきた。任正非にはすでに一男一女がいた。さらに、両親を養わなければならない。さらに、6人の弟たち、妹たちが任正非を頼ってきている。この家族の食い扶持をなんとかしなければならなかった。

中国には、「中年になっても、犬以下」という言葉がある。中年は子どもも親も養わなければならない。ひたすら働くばかりで、自分の楽しみはひとつもないという不幸な状況を表す言葉だ。任正非は、まさにこの時、犬以下だった。

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人民解放軍をリストラされた任正非がやってきた頃の深圳市。ようやく都市としての姿が生まれつつある頃だった。

 

ファーウェイ起業は失業状態をなんとかするため

1987年、44歳の時に、この状況を脱するために、任正非は5人の南油集団時代の仲間と集まって、2万元(約31万円)の創業資金をかき集め、ファーウェイ(華為、ホワウェイ)を起業した。任正非は言う。「会社を大きくしようとか、何かをなそうとか、そういう夢はまったくなかった。創業したのは生き延びるためで、ここに活路を見出すしかなかった」。

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▲ファーウェイを創業した頃の任正非(右端)。44歳という遅い創業だが、失業状態をなんとかするために仕方なく創業したという。

 

交換機の輸入販売から自社開発へ

当初は、普及をし始めた電話のデジタル交換機を輸入して、電話会社に販売をするというビジネスだった。しかし、当時の中国では、欧州などからデジタル交換機を直接輸入するのは難しく、香港の輸入商を経由して輸入するしかなかった。香港の輸入商は、足元を見て、手数料をたっぷりと乗せるため、ファーウェイの利益はほとんど出なかった。

仕方がなく、何でも売った。ダイエット薬品も売っていたし、墓石を売ろうとしたこともあるという。

これではラチが開かないと考えた任正非は、見よう見まねで自分たちでデジタル交換機を開発するしかないと考えた。それまで、ファーウェイの「本社」は、南油集団の社員寮の一室だった。それではあまりにも手狭なので、1991年に、ファーウェイは住宅を借りて、研究所を開設する。しかし、研究所といっても、それは製造現場を兼ねており、社員食堂を兼ねており、社員寮を兼ねているというものだった。

しかも、社員数は50名を超えていたのに、寝る場所は10人分程度しかなかった。50人が交代で寝るしかなかった。任正非のオフィスは、小さなマットレスの上だけだった。

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▲ファーウェイの最初の研究所。一軒家を借りたもので、任正非のオフィスはマットレス1枚の上だけだった。

 

停滞したら倒れてしまう危機感

自社開発をしたデジタル交換機は、規模も小さかったし、見よう見まねの開発なので、性能もそこそこだった。24台の電話を交換することしかできなかった。これを病院や鉱山に売った。

しかし、大した利益にならない。ファーウェイはいつも倒産の危機にあり、それを避けるには、交換機の性能をあげて、売るしかなかった。任正非は、ないお金を研究開発に注ぎ込み、優秀な学生を雇用し、ファーウェイの交換機は次第に規模を大きくし、性能も上がっていった。

こうして、1994年に発売をしたC&C08A型交換機がヒットをした。一般的な輸入交換機よりも扱える電話の台数が多く、しかも価格は1/2だった。大手電話会社はファーウェイ製品の採用に及び腰だったものの、農村の村内電話によく採用された。

ファーウェイは「農村から都市を包囲する」という毛沢東の戦術を引き合いに出して、農村市場の過半数に採用された実績で、都市の大手電話会社にも販売をしていった。ここから、ファーウェイはポケットベル、携帯電話、スマートフォン、通信設備と手を広げていく。

ファーウェイと任正非にあるのは、「停滞したら倒れてしまう」という危機感だ。任正非は、小さな頃からずっとその危機感の中で生きている。極貧の村の極貧家庭に生まれた任正非は、現在ではフォーブスの富豪ランキングに入るまでになっている。

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