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湖南省の山村で生まれて、深圳の工場で働き始めて10年。今は、ニューヨークのグーグル勤務

湖南省の山村で生まれた孫玲は、貧しさと戦いながら、自力でニューヨークで働くところまでたどり着いた。このストーリーは、多くの中国の若者、子どもたちを勇気づけていると地球青年が報じた。

 

湖南省の山村から10年でニューヨーク勤務

孫玲(スン・リン)は、毎朝、ブルックリンにあるアパートで目を覚まして、地下鉄に乗り、マンハッタンのチェルシー8thアベニューにあるグーグルのニューヨークオフィスに出勤をする。現在は、EPAMシステムズのエンジニアで、グーグルとの共同プロジェクトに参加をしている。しかし、孫玲は湖南省の山村で生まれ、ニューヨークなどという都市は遠い世界の話だった。「わずか一年前でさえ、グーグルのオフィスに出勤することになるとは思ってもいませんでした」と言う。

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▲ニューヨークのグーグルオフィスで働く孫玲。湖南省の山村を出て、わずか10年でニューヨークにたどり着いた。

 

中学にも進学できなかった少女

孫玲の実家は、湖南省婁底市の農村で、父親は木工職人であり、機械化が進んだたため仕事は少なくなっていた。母親はミシンで縫う技術を持っていたが、農村の中ではそう多くの仕事はない。そのため、家庭は農村の中でも貧しい部類だった。

兄は学校が嫌いで、小学校の時には孫玲と同学年になってしまった。2人そろって小学校を卒業すると、兄は雪が降った時に学校に通うつらさを言い訳に、中学に進学をするのを嫌がった。孫玲は中学校に通いたいと思っていたが、父親は兄が中学校に行かないのであればと、2人そろって学校をやめさせてしまった。

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▲孫玲の家の畑。湖南省の山村で環境は素晴らしい。しかし、人生の選択肢は農村以外に用意されていない。

 

床屋修行も続かない、農業も続かない

孫玲は学校に行かなくなったので、叔父について散髪の技術を学ぶことになった。3ヶ月間学んで、初めてお客の頭を散髪したが、切り過ぎてしまい、どうやっても元に戻しようがないという大失敗をしてしまった。元々、理容師になりたいわけでもない。それで嫌になって、散髪を学ぶものやめてしまった。

それからは、両親について農作業を手伝ったが、農業は体力のいる仕事だ。とても少女にはこなすことができず、孫玲は両親に学校に行かせてほしいと懇願した。

かわいそうに思った両親が許すと、孫玲は受験勉強を始め、県下で第3位の優秀な中学に合格をした。

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▲実家に戻り、釣りを楽しむ孫玲。川魚が豊富で、食べるだけなら困らない農村だ。

 

中学に合格するも手続きができず

しかし、これで孫玲の未来が開けたわけではない。農村では、高校に進学するのですら特別優秀な学生だけで、大学に行くなどというのは村内のニュースになるほど珍しいことだった。孫玲の父も「勉強などしても何の役に立たない。中学を出ればじゅうぶんだ」と言っていた。それは薄情なのではなく、若い内に生きていくための稼げる技術を身につけさせたいという親の愛情だった。農村ではそれが一般的な考え方だったし、農村の中で生きていくのであればそれが合理的な考え方だった。

中学に通うことになる8月は、農村は収穫期に入り忙しい。農作業を手伝っている孫玲は、入学手続きの日にちを間違えてしまった。あわてて、町に行き、学校で手続きをしようとしたが、手続き期間を終えているのでどうしようもなかった。

これをあまりにもうかつだと感じる人もいるかもしれない。しかし、これが貧しさの悲哀なのだ。貧しいということは、頭の中が常に不安に占められ、今日のご飯のことしか考えることができなくなる。自分の人生については頭のごく一部でしか考えることができず、重要なことでも逃してしまう。それでさらに貧しさという暗い穴に落ちていくことになる。

落胆する孫玲に父親は親戚とも相談をして、民間の中学を探してきて入学させた。しかし、そこは大学受験をするための予備校のようなところで、教師の質は悪く、何の工夫もない授業で、ひたすら問題集を解かせるような学校だった。

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▲孫玲の実家で。孫玲のストーリーは、農村の子どもたちに大きな影響を与えている。

 

大学受験にも失敗、深圳の工場へ

2009年6月、孫玲は大学共通入試「高考」を受験して、399点を取った。これは孫玲の学校の中ではトップの成績だったが、それでもどの大学の合格ラインにも達していない。誰も指導をする者がなく、ほぼ独学で学ぶのには限界がある。高考が終わると、孫玲は叔父の勧めに従って、深圳に行き工員になることになった。孫玲は大学に行ってみたかったが、この結果では、叔父の勧めにしたがうより他になかった。

 

工場の中だけの生活

2009年7月21日、孫玲は同級生と2人で、14時間列車に乗って深圳西駅に着いた。バスに乗り換えると、テレビでしか見たことがなかった高層ビルが並んでいる。孫玲が初めて自分の目で見る都会だった。

孫玲が配属されたのは電池工場で、生産された電池の電圧を測定するのが彼女の仕事だった。遅い時間帯の班に編入されたため、夕方から仕事が始まり朝まで続く。昼夜逆転の生活になってしまった。しかも、残業があるので労働時間は12時間にも及ぶ。自分の時間は食事をして寝るだけで精一杯で、工場は閉鎖空間、外に遊びに行ける時間も限られている。たまの休みでも、外に遊びにいく体力が残っていない。

孫玲はこの生活を続けられなくなっていた。「現実と想像は天と地ほどの違いがあります。あの時の生活は単調そのもので、何の価値も感じることができませんでした」。わずか数ヶ月で、孫玲は脱走を考えるようになった。勉強がしたい、価値のあることをしたい、自分の環境を変えたいと考えるようになった。

 

専門学校とアルバイトだけの生活

孫玲が学びたかったのはコンピューターだった。高考が終わり、結果がわかるまでの間、学校が7日間のコンピューター無料講座を開催したため、孫玲も参加をした。その時、孫玲はコンピューターを本格的に使ってみるのが初めてだった。孫玲の学校にはコンピューターなどなく、友人とネットカフェに行ってゲームを二、三度したことがあるだけだった。

学んでみるとわからないことばかりだが、最終日にパワーポイントでスライドをつくることができた。これが孫玲の中で大きな達成感になっていた。

2010年5月、月給2300元(約4.1万円)の孫玲は、食べるものを削って、お金を貯め、本格的なコンピューター講習を受けるためにお金を貯めた。そして、8000元の講習を支払って、工場を辞めた。食べ物は親が送ってくれるものの無収入であるために最低の生活だった。昼間はコンピューターを学び、夜は生活のためにアルバイトをし、工場に入った時につくった限度額3000元のクレジットカード。それが孫玲の生活のすべてになった。

しかし、充実をしていた。「毎日新しいことを学ぶことができ、学ぶことが現状を変えることができると信じられるようになりました。選択できることがどんどん増えていく感じでした」。

その孫玲の姿を見て、父親もコンピューター講座の学費を支援してくれるようになった。1年半の間、孫玲はコンピューターを学び続けた。

 

地下鉄で出勤し、自分のデスクがある生活

2011年、孫玲はテック企業の就職活動を始めた。見つけたのは政府の仕事をするIT企業で、公務員の給与計算をする仕事で、月給は4000元(約7.3万円)だった。お金を節約するために、住む場所は元同級生とシェアをし、月400元を負担した。

最初に出勤をした時、自分が思い描いていた夢はこれだったのだと思った。孫玲はホワイトカラーになりたかったのだ。都会の地下鉄で出勤をし、オフィスに入ると、自分のデスクとコンピューターが用意されている。そういう場所で働きたかったのだ。

入社初日、自分のコンピューターを起動する前のディスプレイに自分の姿が写っている。孫玲はディスプレイの中の自分に向かって、「もう二度と昔の生活には戻らない」と語りかけ、それからコンピューターを起動した。

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▲深圳でホワイトカラーとなり、社員旅行で初めてテーマパークに行った記念写真。人並みの娯楽を楽しむのは初めてのことだった。

 

自分の手で手に入れた充実した生活

それからの孫玲はそれまでの人生が嘘のように順調に生活が向上していった。仕事を次々と覚え、給料は毎年のように増えていく。いつの間にか大学出のホワイカラーよりも高給になっていた。

余暇の時間も持てるようになり、その時間は英語を学び、フリスビーとジョギングを楽しむようになった。

コンピューターの勉強も続けた。西安交通大学の計算機専攻の通信生になり、高専卒業の資格も取得した。その後、週末を利用して深圳大学に通い、大卒資格も取得した。

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▲フリスビーをきっかけに友人ができ、それが孫玲の世界を大きく広げることになった。

 

クリスマスに書いた願い「海外で働きたい」

2014年6月、孫玲はある英語を使うボランティア活動に参加をした。そこで知り合った外国人がフリスビーの大会に出ていたことから意気投合し、外国人の友人ができるようになった。

孫玲はその友人たちとフリスビーの大会に参加するようになり、中国国内だけでなく、東南アジアにまで遠征するようになった。その友人たちは、外国人だけでなく、中国人も普通に英語を話す。仕事でも活躍をしている人ばかりだった。孫玲は自分の友人たちのような人生を送りたいと思うようになる。

2016年のクリスマス、孫玲は友人たちとクリスマスパーティーを開いた。その中で、それぞれが願いごとをカードに書いて、クリスマスツリーに飾るということが行われた。孫玲は「一年、海外で仕事をして生活をしてみたい」と書いた。

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▲2016年のクリスマス。孫玲(左)は、海外で働くという目標を立てた。

 

英語を学び、海外留学を実現

孫玲は、海外留学のネット情報を頻繁にみるようになった。その中で、ピンときたのがある米国の大学のもので、ITの9ヶ月の座学、1年の実習というもので、実務経験があり、大卒資格があり、一定以上の英語能力があり、学費と生活を一括納入できることという条件があった。

これが孫玲の目標となった。生活の中で中国語を使うのをやめ、すべて英語に切り替え、IELTSでは5.5点を取った。満点は9.0点で、多くの大学で入学資格に5.5点以上を求めている。学費は12万元必要だったが、彼女の給料はすでに1万元を軽く超えていたため、一括納入することができた。

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アイオワ州の留学先での記念写真。さまざまな人種の人が集まり、米国で働くことを目標にしている。

 

仕事がなければ学校に戻る。シリコンバレーで背水の陣

孫玲が留学した学校はアイオワ州の郊外にあった。静かで学ぶのに適していた場所だ。孫玲が学んだのはビッグデータの処理についてだ。特にFacebookビッグデータ分析について深く学び、どのような単語を使うと「いいね」がもらえるようになるかという関係を可視化するなどの実習を行なった。

2年近い留学が終わると、孫玲は米国で仕事を探し始めた。シリコンバレーのあるカリフォルニア州に転居した。しかし、シリコンバレーは家賃も物価も高い。孫玲は3ヶ月という期限を自分で定めていた。3ヶ月仕事を探して見つからなかったらアイオワに戻って、さらに上級コースの授業をとる。しかし、もはや蓄えはほぼ無くなっている。仕事が見つからずに学校に戻るということは借金をするということだ。それだけは避けたい。何としても3ヶ月で、シリコンバレーにしがみつく手がかりを見つける必要があった。

 

過去は問わない、現在の能力だけを問うシリコンバレー

孫玲は履歴書を送りまくって、2ヶ月で60社の面接を受けた。その中でEPAMシステムズが孫玲に興味を示した。グーグルとの共同プロジェクトのエンジニアで、勤務地はグーグルのオフィスになり、年棒は9万ドルから13万ドル(約1500万円)の間で、成果により変動するものというものだった。

孫玲が意外だったのは、それまでの孫玲の経歴ーー湖南省の山村に生まれて、高卒で深圳の工場の工員となり、そこから通信制で大卒資格を得ているという苦労話に、HR担当者はさほど興味を示さなかったことだ。その経歴が採用に不利になるということはなく、かといって努力の証だと評価もしない。ありふれた話だと言わんばかりで、孫玲の現在の能力だけを評価した。

HR担当者は、採用の価値ありと判断をし、続けて技術担当者の面接があり、さらにグーグルの技術担当者の面接に進み、最初の面接から約1ヶ月で採用が決定した。

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▲ニューヨークのグーグルオフィスで働く孫玲。湖南省の山村を出て、わずか10年でニューヨークにたどり着いた。

 

選択肢とは選ぶものではなく、自分でつくるもの

10年前、高校を卒業した頃を思い出すと、自分がニューヨークのオフィスで仕事をしていることが夢のようで、不思議な気分に襲われる。農村で生まれた少女は、そのまま村で農業を続けるか、深圳で工員をするかぐらいしか人生の選択肢が用意されていない。しかし、人生の選択肢は与えられたものの中から選ぶのではなく、自分で選択肢をつくるものだと気がついた。選択肢をつくろうと強く願えば、この世界は必ず応じてくれる。

孫玲は今後どのようにキャリアを築いていくのは深く考えていない。しかし、この素晴らしい世界を探検する一人の子どもでありたいと考えている。まだ孫玲の冒険は終わっていない。