弱い絆とは、接触時間、濃度が大きくない緩い結びつきのこと。異なる考え方、行動様式を持っているため、ものごとを多角的な視点で考えることができ、新しいアイディアに結びつきやすい。拼多多、アリババなどの成功には、この「弱い絆」がきわめて重要な働きをしたとテンセント網が報じた。
強い絆と弱い絆の両方が必要
「弱い絆」とは、米国の社会学者マーク・グラノベッターの提唱した「弱い絆の強み」という説。家族、親友、同僚という強い絆が重要であることは言うまでもないが、知り合い、SNS上の繋がりと言う弱い絆も重要であるというもの。
強い絆は、長時間接触し、互いに影響し合うために、考え方や行動が次第に似通ってくる。そのため、新しい情報探索をする場合、冗長性が高くなる。似たような情報ばかり探してしまうのだ。
一方で、会う機会が多くない知り合い、SNS上の知り合いは、互いに影響される度合いが少ないため、それぞれに異なる考え方や行動を持っている。そのため、新しい情報探索をする場合、冗長性が低く、効率がいい。つまり、異なる情報が集まってきやすい。
簡単に言えば、新しいアイディアを考えなければならない時、いつものメンバーが会議室に集まって、うんうん唸っても何も新しいことは見つからない。むしろ、外に出て、弱い絆の人と会い刺激を受けた方が見つかる可能性が高いというものだ。人が生きていくためには、強い絆と弱い絆の両方が必要だというもの。
拼多多創業者の成功の鍵は「弱い絆」
2019年7月、ソーシャルEC「拼多多」(ピンドードー)が、創業2年4ヶ月で米ナスダック市場に上場した。拼多多は利用者数、月間アクティブユーザー数で、京東を抜き、中国第2位のECに成長をし、アリババの背中が見え始めている。
創業者の黄峥(ホアン・ジェン)は、拼多多の株式の50.7%を所有しているため、わずか28カ月で、800億元(1.25兆円)の資産を持つことになった。黄峥は杭州市のごく普通の家庭に生まれ、親のコネクションなど何もなかった。そこから、米国留学、グーグル入社、帰国後創業と自分で自分の道を切り開いてきた。
その成功の秘密が、「弱い絆」にあると話題になっている。
▲ウォーレン・バフェット氏と食事をともにする拼多多の創業者、黄峥。当時はグーグルのエンジニアだったが、SNSで知り合いになった歩歩高の創業者、段永平が連れて行ってくれた。これがきっかけとなり、段永平は黄峥のメンターとなり、そこから拼多多の創業アイディアも生まれてきた。
SNSで網易の創業者と知り合う
2002年、浙江大学の4年生だった黄峥は、ベッドに寝そべりながら、PCからマイクロソフトのSNS「MSN」にアクセスすると、見知らぬ人が友人の申請をしてきた。黄峥はコンピューター科学を専攻し、日頃からMSNでテクノロジーに関する文章を公開していて、その人は、黄峥にある技術的な問題を尋ねてきた。黄峥にとっては難しい質問ではなかったので、親切に答えた。すると、その人はとても感謝をしてきた。この人は、丁磊(ディン・レイ、ウィリアム・ディン)。エンタメポータル「網易」の創業者で、この時にはすでに網易をナスダック市場に上場させていた。
2人の関係は、あくまでもSNS上の知り合いでしかなかった。黄峥にとって丁磊は創業して上場させたすごい人であり、丁磊にとって黄峥は優秀な大学生という関係だった。
さらに歩歩高創業者に広がる
丁磊は自分の友人である段永平(ドアン・ヨンピン)を黄峥に紹介した。段永平は、ファミコンの互換機「小覇王学習機」をヒットさせ、「歩歩高」(ブーブーガオ)を創業した人物だ。この歩歩高から、スマホメーカー「OPPO」「vivo」が生まれてくる。
黄峥は米国留学が決まった時、初めて段永平と会うことになった。しかし、それだけで、黄峥にとって段永平は歩歩高を創業したすごい人であり、段永平にとって黄峥は米国に留学をする優秀な大学生という関係にすぎなかった。
歩歩高創業者が一生のメンターとなる
黄峥は、ウィスコンシン大学マジソン校に留学をし、修士号を取得すると、そのままグーグルに入社をした。2006年に、グーグルが中国オフィスを設立することになり、黄峥は中国オフィスの立ち上げスタッフとして中国に帰国をした。
段永平にとって、黄峥はもはやただの優秀な学生ではなくなっていた。グーグルの優秀なエンジニアであり、ひょっとするとグーグル中国の中核メンバーになるかもしれない重要人物になっていた。
段永平は、その頃、米国の投資家ウォーレン・バフェットと食事をする機会を得た。その食事会に誰を連れていくかを考えたとき、段永平の頭に思い浮かんだのが、中国に帰国したばかりの黄峥だった。なぜ、段永平が黄峥を思い出したのかはわからないが、英語が話せて、グーグル中国のスタッフということで、バフェットに対する受けがいいと考えたのかもしれない。
黄峥は、その食事会で、バレットと段永平の2人を魅了した。ただのエンジニアではなく、ビジネスセンスも優れているという印象を与えたのだ。それ以来、段永平は黄峥のメンターとなり、定期的に会い、ビジネスアイディアを検討する間柄になった。そこから「拼多多」のソーシャルECというアイディアが生まれてきた。
すべては、大学生の時、MSNの友達申請を了承したことから始まっている。
学生だったジャック・マーを支援したオーストラリア人
アリババの創業者、ジャック・マーにもこの「弱い絆」が人生を変えた経験がある。小学生の時、地理の女性教師に恋心を抱いたジャック・マーは、彼女が英語で外国人と話す姿を見て、英語に憧れ、短波ラジオで英語放送を聞くことで、英語の勉強を始めた。
高校生になると、世界的な観光地である西湖を自転車で走り回り、外国人を見かけると積極的に話しかけて、英会話の練習をしていた。
1980年、オーストラリアの訪中団に加わっていたエンジニアのケン・モーリーとその息子のデビッド・モーリーを見つけ、英語で話しかけた。息子のデビッドはジャック・マーと同年代であり、すぐに親しくなった。
モーリー親子は帰国をしたが、モーリー親子との文通が始まり、一生の付き合いとなった。特に、ケン・モーリーは、中国の希望に満ちた少年を一生にわたって支援をすることになる。ケン・モーリーは自分の小遣いから毎月わずかな額の積み立てを始め、ジャック・マーが杭州師範大学に入学した時に、そのお金を送っている。ケン・モーリーにとって大金とは言えなかったが、当時の中国の物価から考えると大金だった。おかげで、ジャック・マーは大学時代、学業だけに集中することができた。
▲ジャック・マーが高校生の頃、杭州市西湖で出会ったデビッド・モーリーとの写真。デビッドの父親のケン・モーリーは、ジャック・マー少年をことあるごとに支援し、ジャック・マーの成功に大きな貢献をしている。
初めての海外体験を支援をしたケン・モーリー
さらに、ジャック・マーがオーストラリアに行って、広い世界を自分の目で見てみたいと考えた時、励ましてくれたのもケン・モーリーだった。当時の中国では、普通の人間が海外にいくことは不可能に近い。ジャック・マーは7回申請をして、7回拒絶されていた。それでも、ケン・モーリーは手紙で励まし、それだけでなく、駐中オーストラリア大使館にビザを発給するように運動までしていた。
このおかげで、8回目の申請でビザが取得でき、ジャック・マーは初めて海外に出ることができた。
ジャック・マーは2017年にオーストラリアに行き、モーリー親子の恩に報いた。デビッド・モーリーの出身校であるニューカッスル大学に2000万ドル(約21.5億円)を寄付して、「マー・モーリー奨学金」を設立した。中国留学をするオーストラリア人学生に与えられる奨学金だ。
▲大学生の時、初めての海外旅行で、オーストラリアに行き、モーリー親子と再開したジャック・マー。当時の中国で、大学生が出国をするのは難しいことで、そこでもケン・モーリー氏の運動があった。
強い絆社会だった中国に、弱い絆をもたらしたテクノロジー
中国社会は、元来、強い絆を極端に重視をしていた。誰かが事業を始める時、資金を出すのは「親戚の中のお金持ち」だった。見知らぬ人と知り合いになるには、共通の友人の紹介をしてもらわなければならなかった。見知らぬ人はよそ者として排除する傾向が強かった。
しかし、それでは一部の人が貴族化し、楽をしていい思いをする一方で、大半の強い絆を持たない人々は一方的に搾取されるばかりだった。
その社会のあり方をテクノロジーが変えた。SNSを使って、弱い絆を築くことができるようになり、そこからチャンスが生まれるようになっている。