中華IT最新事情

中国を中心にしたアジアのテック最新事情

清華大学はなぜ「中国のMIT」と呼ばれるのか。清華大学から生まれた捜狗と快手(上)

北京市清華大学は、中国のMITと呼ばれるほど、優秀なエンジニアの供給源となっている。それはインターネットの黎明期から、清華大学の卒業生がテック業界で活躍し、それに憧れて全国から優秀な理系学生が集まるようになったからだと騰訊網が報じた。

 

卒業生が成功することで生まれた「中国のMIT」

中国の北京市にある清華大学(チンホワ)は、1911年に米国留学の予備校として設立された清華学堂を起源とする大学で、北京大学と並んで、国際感覚のある人材を輩出してきた国家重点大学だ。近年では、中国のMITと呼ばれ、研究エンジニアを多数輩出している。そのイメージができあがったのは、70年代生まれの清華大学卒業生たちが、中国のIT業界で活躍をしたからだ。

中国のIT業界は、60后(60年代生まれ)の馬雲(マー・ユイン、ジャック・マー。アリババを創業)、李彦宏(リー・イエンホン、ロビン・リー、百度を創業)、70后の馬化騰(マー・ホアタン、ポニー・マー、テンセントを創業)、80后の張一鳴(ジャン・イーミン、バイトダンスを創業)が主要人物だが、70后世代は、ポニー・マーを除けば清華大学出身者が活躍した世代だ。この活躍により、多くの理系の学生が清華大学を目指して、IT業界でエンジニアとして働きたいと考えるようになった。

特に、捜狗を創業した王小川(ワン・シャオチュアン)と、快手を創業した宿華(スー・ホワ)の活躍が、多くの学生を惹きつけている。

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▲中国のMITと呼ばれる清華大学。卒業生がテック業界で活躍したことで、全国から優秀な理系学生が集まる大学になっている。

 

中国にシリコンバレーの空気を持ち込んだ「校友録」

1998年に深圳でテンセントが創業し、1999年に杭州でアリババが創業した頃、北京では「校友録」(ChinaRen)が創業した。MITなどの米国留学経験のある陳一舟(チェン・イージョウ)が2人の仲間と創業した。アリババとテンセントの創業者2人は留学経験がない。シリコンバレーの事情は理解はしていたものの、肌で感じているとまでは言えない。しかし、校友録の3人はシリコンバレーの成長期にその場所にいた。中国に最初にシリコンバレーの空気を持ち込んだことになる。百度のロビン・リーが帰国をして百度を創業するのはこの2年後のことだ。

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▲中国で初期のポータルサイトのひとつ「校友録」。Facebookも5年早く、SNS的機能を持っていた。

 

近所の清華大学に人材を求めた校友録

校友録は大学生向けのSNSだが、Facebookの登場よりも5年早い。3人は、成長期にあったYahoo!を米国で目のあたりにし、同じものを中国でも展開しようとした。しかし、ただYahoo!の真似ではなく、大学生向けに交流できる仕組みを取り入れた。加入した学生は自分のホームページを作成することができ、電子メールで交流することができる。

3人の思惑では、最高のサイトを開発して、米国の投資家たちから投資資金を引き出そうというものだった。しかし、優秀なエンジニアがいない。そこで3人は、近くにある清華大学の学生をスカウトすることにした。

 

清華大学で名前が知られていた学生、周楓

すでに、3人にはあてがあった。噂で、96年入学の周楓(ジョウ・フォン)という優秀な学生がいるということを聞いていたからだ。

周楓は、1977年、江蘇省宜興市に生まれた。小さな頃から学業は図抜けて優秀で、10代になるとコンピューターに夢中になった。1996年に清華大学に、無錫市から主席の成績で入学をし、初めてインターネットに触れ、夢中になってしまった。

3人は、周楓が暮らす清華大学の計算機学部学生寮の9号棟を訪ねていった。19歳の周楓は、袖を切り落としたTシャツにショートパンツという姿だった。3人が訪ねてきた理由を説明すると、周楓は興奮をした。なにしろ、中国で最初のポータルサイトの開発に携わることができて、毎月8000元(約13.4万円)もの給料をくれるというのだ。当時、普通の給料は1000元にもまだ満たない時代だ。しかも、フルタイムではなく、大学との兼業でかまわないという。周楓はふたつ返事で応じた。

 

清華大学ハッカーだった周楓と王小川

しかし、1人で開発をするのは心許ない。そこで、周楓は、同級生の王小川(ワン・シャオチュアン)も誘うことにした。彼は四川省成都生まれだが、国際情報オリンピックで金メダルを獲得した経験があり、それで清華大学に推薦入学で入ってきていた。

さらに、王小川の高校の同級生である庄莉(ジュアン・リー)という女性も同学年にいた。この3人は、コンピューターに魅せられたハッカーとして、清華大学の中でさまざまなことをしている。

当時、清華大学にはLANが完備をしていなかった。周楓は大学と掛け合い、自分の住む学生寮である9号棟に回線を引き、独自に「酒井BBS」を開設し、その管理まで行っていた(酒井は酒の井戸の意味。雑談を楽しむ場所)。これにより、周楓は清華大学でLANの実装に最も詳しい学生となった。

その様子を見て、女子学生から「男子学生ばかりずるい」という文句がきた。周楓はすぐに女子寮である7号棟に回線を延長した。なぜなら、7号棟には庄莉が暮らしていたからだ。周楓と庄莉の2人は、毎年5名しか授与されない清華大学奨学金を揃って獲得した優等生だ。2人は後に、恋愛関係となり、一緒に米国に留学することになる。

 

中国で最初のポータルのひとつとなった校友録

周楓と王小川の2人は、校友録で8000元の給料をもらいながら働いた。しかし、楽な仕事ではなかった。創業者の陳一舟の要求は厳しく、インターン実習生を率いての開発となった。2人とも睡眠時間は4時間ほど。眠くなったら、椅子に座ったまま気を失って、気がついたらコードを書くという生活だった。

そのような生活が半年続いて、ようやく校友録がリリースされた。すぐに人気となり、中国で最初に成功したポータルサイトとなった。

しかし、周楓と王小川の2人はいつまでも喜んでいるわけにはいかなかった。開発に時間を取られていて、学業が疎かになっていたのだ。陳一舟は、卒業したらそのまま校友録に就職してほしいと誘ったが、周楓は大学生活に戻ることにした。恋人の庄莉が大学院に進むことを希望していたため、2人で海外に留学をしたいと考えていたからだ。その費用は半年の仕事でじゅうぶん貯まった。一方、王小川は、大学を休業して、そのまま校友録に入社をした。

 

捜狐に移籍後、大学に戻る王小川

王小川は、清華大学では優等生だったとは言えない。もともと学業成績は優秀で、推薦入学で入り、学生寮暮らしをする中で、テレビゲームに夢中になってしまった。入学後の最初の期末試験では、下から数えた方が早い成績だった。

講義にも出ず、毎日学生寮でテレビゲームをする中で、王小川は次第に鬱状態になっていった。翻訳された日本の書籍「完全自殺マニュアル」を夢中になって読んだ。そして、自殺の方法を研究するようになっていった。

その後、ようやく鬱状態から脱することができ、ゲーム機は同級生にあげてしまった。その時、周楓から校友録の仕事に誘われた。王小川は、何もかも忘れさせてくれ、他に何もできない状況での開発生活が気に入ってしまった。

2000年10月、校友録はポータルサイト捜狐(ソーフー)に買収されることになった。創業者の陳一舟は全員にお金を渡してチームを解散したが、王小川はそのまま捜狐に移籍をする道を選んだ。校友録に関係する部分の開発を続けた。しかし、2年経つと、王小川にはやることもなくなってしまった。王小川は、捜狐を辞職して、清華大学に戻り、修士課程に進んだ。


清華大学チームで開発された捜狐の検索エンジン

2003年、捜狐を辞職して清華大学に戻っていた王小川の元に、捜狐の創業者である張朝陽(ジャン・チャオヤン)から連絡が入った。捜狐に戻って、検索エンジンの開発をしてくれないかというのだ。

当時、百度検索エンジンの人気が出て、成長する検索広告市場を百度が独占していた。各テック企業は、検索エンジンの開発に挑戦をしていたが、どこも苦戦をしている。検索エンジンの開発は簡単なことではなかったのだ。そこで、張朝陽は元

捜狐にいた王小川に白羽の矢を立てた。ちょうど、王小川も修士課程を終えるタイミングだった。「6人のエンジニアを預けるので、検索エンジンを開発して、百度を退治しよう!」。張朝陽はそう説得した。

王小川は6人では不足だと答えた。12人は必要で、しかも全員が清華大学出身の優秀なエンジニアでなければならないとした。こうして、捜狐の検索エンジン清華大学チームが結成された。

1日の作業時間は20時間を超えるという日が11ヶ月続き、ようやく捜狐の検索エンジンが完成をした。この検索エンジンの質は高く、数年かけて開発された百度検索エンジンに肩を並べた。検索広告市場は、百度と捜狐が支配をすることになった。

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ポータルサイト「捜狐」。検索エンジンの開発は、清華大学出身のエンジニアチームにより行われた。

 

周楓を入社させた網易

この様子を見ていて、歯噛みをしていたのがポータルサイト「網易」(ワンイー)の創業者、丁磊(ディン・レイ)だった。網易でも検索エンジンの開発に挑戦をしていたが苦戦をしていた。

その頃、丁磊はある英語論文を読んで感心をした。電子メールに関する技術的課題の解決法を提案したものだが、その頭のよさに驚いた。著者を見ると、カルフォルニア大学バークレー校の学生だったが、中国人だった。それが、清華大学在学中に

校友録を開発し、米国留学をしていた周楓だったのだ。

丁磊は周楓にぜひ網易に入社してもらいたいと考え、電子メールで連絡をとった。このような時、丁磊は長々と本文を書くようなことはしない。中国のテック業界で、網易と丁磊の名前を知らない人はいない。もし、この名前に反応してくれなかったら、それはテック業界に興味がない人なのだ。そういう人に誘いをかけても時間の無駄になる。

丁磊は、「私は網易の丁磊です。連絡をください」とだけ書いたメールを送った。そのメールを受け取った周楓は、もちろん網易のことも丁磊のことも知っていたが、ただの学生である自分のところにそんな有名人がメールをくれるとは思ってもいなかった。きっと誰かのいたずらに違いないと思い無視をしてしまった。

返事がこないので丁磊は、周楓のことをいろいろ調べた。すると、庄莉と一緒にバークレー校に留学していることを知り、庄莉に電子メールを送り、周楓にメールに返事をするように促してもらった。

そこから、丁磊と周楓は、電子メールについての技術的課題を電子メールを使って議論を交わすようになった。

 

網易で検索エンジンの開発を始めた周楓

2005年、周楓は網易に入社をして、検索エンジンの設計を行うことになった。しかし、博士課程を終えていないため、北京とバークレーを行き来しながらの兼業ということになる。

この時、百度はナスダックに上場し、華々しい時代を迎えていた。

 

捜狐で意見が対立をした王小川

2006年は、清華大学系のエンジニアにとって大きな転換点となった。周楓が開発した検索エンジンは、網易で「有道捜索」としてリリースされた。すぐにブログ検索、画像検索など、網易のさまざまな検索に応用されていった。

検索エンジンの領域で、百度の次の地位を確保していた捜狐は、網易の検索エンジンに恐れを抱いた。特に捜狐の創業者の張朝陽は、検索エンジンを開発した王小川に再度検索エンジンをアップグレードをする仕事に戻ってほしいと考えていた。

しかし、捜狐の副総裁になっていた王小川は、入力メソッドの開発に夢中になっていて、今さら検索エンジンの開発に戻ろうとしなかった。もし、これ以上の性能の検索エンジンを必要とするのであれば、独自のブラウザーの開発が必要で、ブラウザー検索エンジン、入力メソッドの3つが揃わなければ、百度を超えるユーザー体験は実現できないと考えていた。一方で、張朝陽は、捜狐にはそこまでの開発を行うリソースはなく、検索エンジンだけを改良すべきだと主張して、意見が対立した。

意見が対立した王小川は、張朝陽の意見を無視して、ブラウザーの開発を始めた。張朝陽は、王小川の意思決定権を剥奪したため、経費も出ない。それでもブラウザーの開発が必要だと考えた王小川は、自分のお金でエンジニアを雇い、ブラウザーの開発を始めた。

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▲王小川が創業した捜狗。トップページは非常なシンプルな作りになっている。入力メソッドの評判がよく、多くの人に使われている。

 

王小川は独立して捜狗を創業

一方で、網易の周楓が開発した有道捜索も行き詰まっていた。百度と同じ品質の検索エンジンだとは言っても、それだけでは百度に勝つことはできない。多くの人は同じような品質であれば、使い慣れた百度を使い続けたのだ。網易は、検索エンジンの以降の開発プロジェクトをキャンセルした。

2008年、王小川のブラウザーが完成をした。意見が対立していた捜狐の張朝陽は、このチームを分離することにした。こうして、捜狐傘下の子会社として「捜狗」(ソーゴー)が誕生した。捜狗はさらに捜狗入力メソッドを開発し、検索、ブラウザー、入力メソッドという、王小川が思い描いていた環境が完成した。これにより、PCでインターネットを使う環境が格段によくなった。

 

捜狗を上場した王小川

すると、さまざまなテック企業が捜狗に触手を伸ばしてきた。網易の丁磊は、資金ならいくらでも出すと誘ってきたし、百度のロビン・リーは、王小川に百度のCTOになってくれないかと誘ってきた。そのまま捜狗も買収するという話だった。さらに、360の周鴻は、捜狐の張朝陽がいる前で、臆面もなく、捜狗の買収の話を持ち出すほどだった。

このような動きに、張朝陽は捜狗の買収話はすべて断った。王小川にしてみれば、優れた製品の開発に成功して、多くのテック企業が捜狗をほしがっているのに、これではまったく創業者利益が得られないことになる。そこで、王小川は、人づてにアリババのジャック・マーを紹介してもらい、捜狗が捜狐から独立する支援をしてほしいと支援を請いにいっている。

結局、2013年に、王小川は、テンセントのポニー・マーと話をすることができ、4.48億ドル(約490億円)の資本参入が決まった。議決権は捜狗側に残された。そして、2017年に捜狗は、ニューヨーク市場に上場し、50.96億ドルの企業価値がつけられた。

王小川は、上場したその日まで休暇を取ったことがなかった。結婚もしたことがなかった。清華大学の近くの繁華街、五道口の外に出たこともほとんどなく、清華大学の守衛さんとも揶揄されていた。39歳になって、ようやく休暇を楽しんだ。

 

明日に続きます。